6
なぜだろう、当時のどの記憶よりも、そんな奈々美の姿が、はっきりと僕の中に色づいて残っていた。
その日の放課後は、自習室として解放されている教室で過ごした。
家に帰りたくなかった。いや帰る場所が無くなってしまった。
ひとりふたりと帰っていく生徒らの中、夕暮れに染まる校庭を眺めていると、二週間前のあの夜の事が鮮明に蘇った。
その日、着替えを取りに行くようにと祖父に言われ、一人で部屋に入った。学生服や下着をかき集めるようにカバンに詰め、部屋の明かりを消した。
カーテンがなびくと、外の星が見えた。僕の街では珍しく、星のよく見える夜だった。外の闇と混じりあい、部屋は夜に投げ出されたようで、ただその大きさにひれ伏すしかなかった。
母が、死んだ夜だった。
中学三年の僕は、色鮮やか過ぎる母の記憶に、ただ呆然と幼い涙を流すしかなかった
薄暗くなった校庭から目を離すと、さっきまで自習をしていた生徒らも消え、教室には僕だけになっていた。校内放送の下校を促すメロディも、三周目になっていた。
それでも、帰りたくなかった。
ずっと一人で僕を育ててくれた母が亡くなり、祖父母の家に暮らすようになった。
家が近いという事もあって、祖父母とは頻繁に会っていた。母が亡くなり、祖父母の家に引き取られるという事も、半ば当然のことのように話が進んだ。
祖父母の事は大好きだった。
だが、ふいに、もう会えないんだという、途方もなくまっすぐな現実に、押しつぶされてしまう。
家に帰ると母がいる。そんな当たり前の日常が、もう二度と、絶対に、戻らないという現実に怯えていた。
だからあの日も、下校時刻をとっくに過ぎても、帰る気になれなかった。
下校のメロディも五周目になった時、教室のドアが開き、柚木先生が入ってきた。
「まだいたの?」
教室に居残る生徒を叱りつける口調では無く、憐れみを短い中に溶かしたような呼び方だった。
「大丈夫? 何かあったら先生が話を聞くからね」
僕は柚木先生の方は見ず、机の上の教科書を片付けながら、「はい」とだけ答えた。
柚木先生はそっと僕の肩に手を乗せ、「辛いよね、元気だそうね」と言った。
なぜだろう。今でも分からない。その時の柚木先生の手から、身震いするくらい、冷たい感触が肩に伝わった。
「クラスのみんなも、天城君のこと心配してるから」
何だよそれ、と心の中でつぶやいた。それでもまた僕は「はい」と目を合わさずに答えた。
カバンに流し込むように教科書や筆箱を入れ、「帰ります」と短く会釈をして、早足に出口に向かった。
「天城君」
大切なことを言い忘れていたというように、柚木先生は名前を呼んだ。
「早退しちゃった日、体操服忘れてたでしょ?」
そう言うと、柚木先生は僕の机に引っ掛けてあった体操袋を手に取った。
「臭くなっちゃうでしょ? 洗っておいたから」
それと、と柚木先生は袋の中に手を伸ばした。やめてくれ、心の中で言葉が弾けた。
まだ元気だった頃、料理は上手くても、手先は不器用だった母が、剥がれかけた体操服のワッペンを縫い付けてくれた。
ジグザグで不格好で、少し引っ張ると、だらんと糸が伸びてしまう。
僕が指摘しても、笑って寝たふりをした。何だよと僕が呆れると、大げさないびきをかいて、笑いがこらえきれなくなったのか、ふふと息を漏らした。
「クラスのワッペンが剥がれかけてたから、縫い付けておいたから」
照れ隠しなのか、柚木先生は、いつも冗談を言った後にするような、おどけて肩をすくめるジェスチャーをして、「これでも家庭科、得意だったんだから」と、歌うようなリズムで言った。
柚木先生が広げた体操服には、たしかに等間隔でしっかりと縫い付けられたワッペンがあった。
こみ上げるものが何か分からない。吐いた息が震える。でも、感情の出どころも行方も 分からない。ありがとうございます、ふざけんなよ、正反対の言葉がはねのけ合う。
この場から立ち去りたい。そうしないと何かが壊れてしまう気がする。お礼の言葉の代わりに、頭を下げた。
「先生の事、お母さんだと思ってくれたら、いいからね」
その言葉を聞いて、何かが僕の中で、崩れた。
その途端、「なんであんたを」と言葉が胸の奥から溢れた。
柚木先生は思いもしなかった言葉を聞かされたというように、呆然と僕を見ていた。
でも僕は、振り上げた言葉を下ろす気にはなれなかった。
「なんであんたをお母さんなんて、思わないとダメなんだよ」
言葉と一緒に、ずっと押し込めていた感情も溢れた。張り上げた声の落とし所を見失った僕は、恐る恐る柚木先生の顔を見た。
ゾッとするほど、冷たい顔をしていた。
柚木先生は、ほんのわずか嫌悪感を滲ませたあと、すぐに表情を戻した。
わざとらしく口角を上げて、僕に微笑みかける。
「そっか、また何かあったらいつでも言ってね」
淡々とした口調で告げると、興味を失ったように教室から出ていった。
顔を伏せて、机をじっと見つめていた。柚木先生が遠ざかるまで、ただ足音に耳をすませていた。
足音が遠ざかり、静かになったと思ったら、もう一つ、足音が教室の中へと入ってくるのが分かった。
顔を上げる。
教室の入り口には、奈々美が立っていた。
ずっと話を聞いていたのか、偶然居合わせただけなのか、分からない。
ただ、たった今まで、ぐしゃぐしゃになった感情をどうしても上手く処理することができず、かける言葉が見つけられなかった。
そんな僕の気持ちを先回りするように、奈々美の方から声をかけてくれた。
「わたしたちで、教室にいるの最後だと思うから、鍵閉めちゃうよ」
ぶっきらぼうで、抑揚のない口調だが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「天城もそっちの窓閉めて」
顔色を変えずにそう言うと、奈々美はグラウンド側の鍵を閉め、僕もただ静かに廊下側の窓を閉めて歩いた。
「天城」
奈々美は窓が閉まっているか、確認する手を止めずに言った。
「このあと、ちょっと時間ある?」
窓に向かったまま、振り向かずに言った。相変わらず、投げ捨てるような言い方だったが、どこか心地よかった。さっきまでの胸のざわつきが、波が引いたように、静まっていた。
奈々美が何を考えているのかは分からなかったが、ただ僕は「うん」とだけ答えた。
「相談に乗ってくれる?」
「相談?」
思わず聞き返してしまった。言い間違いか聞き間違えだと思ったが、奈々美は近くの席に座ると、僕にも座るように目で促した。
「あのね」
奈々美は、一つ下に妹がいること。そしてその妹と喧嘩をしてしまったことを僕に話してくれた。
「それで喧嘩しちゃったんだけど」
テストの問題文を読み上げるような冷静な口調は変わらなかったが、話の途中、何度か僕の目を覗き込んで、言葉を途中で止めた。
ちゃんと話を聞いていると、僕が頷いて見せると、また同じ調子で話を始めた。
「それでさ」
奈々美は話を続けた。
相談に乗ってくれと言っても、僕にアドバイスを求めることも、質問をすることもなく、奈々美は一人で背負いこんだ重荷をゆっくりと降ろすように、話し続けた。
「遅くまで、ごめんね」
「別に」
僕が頭を横に振ると、奈々美は一度だけ、たった一度だけ、そっと笑顔を浮かべた。
「話を聞いてくれて、ありがとう」
すぐに表情を戻した奈々美だったが、笑顔の余韻は僕の胸の中の、ずっと奥に刻み込まれたような気がした。
少なくともあの頃の僕は、元気を出してと何人もの大人に慰められるよりも、「ありがとう」の一言が、何よりも救いになったのだ。
浴室から、シャワーの音が聞こえ始めた。




