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「ねえ、今さ」
妻はタンスからパジャマを取り出しながら、ふと何でもないことを思い出したように、僕の方を見た。
「何?」
「この人死ぬんだなーって思いながら、こっち見てたでしょ?」
不意をつかれた僕は、その言葉に固まってしまった。
「別にそんな風には」
「じゃあ、お風呂入ってくる」
笑いながらそう言うと、浴室へと早足で向かった。
残された僕は、何も言えなくなって、その場に立ち尽くす。
そんな訳ないだろ、間髪入れずに、そう言うべきだった。
でもきっと、妻は僕にそんな嘘を吐かせないために、言葉の余韻を断ち切って、さらりと身をかわした。きっと、嘘を吐いたあとに、僕が苦しくなってしまうことまで先読みして。
実際、妻の横顔を見ていると、かき乱すような不安感が胸を覆ったのも事実だ。
儚げに壁を見つめ、一人で何もかも抱え込もうとしている。
そう見えて、仕方がなかった。
タンスの引き出しを開ける。
長く使うものだからと、引っ越しの際に購入した無垢材の北欧タンスだ。
引き出しの一番下、青いジャージが二人分、重ねて置いてある。
中学の体操着だ。
示し合わせた訳ではないのに、引っ越しの荷解きをしながら、それぞれのダンボールで見つけた。
こんなの大切に取ってる奴いないよなと、二人で笑いながらも、何となく捨てられなくなって、ずっとここに仕舞ったままだった。
妻とは、今から15年以上前、中学の頃に出会った。
中学三年の十月、僕は二週間ぶりに学校に来ていた。
受験を控えているという事もあって、祖父が半ば強引に学校に送り出したのだ。
子供なりの優しさだったのか、教師達からそう言われていたのか、同級生らは僕を避けることはなかった。
かさぶたを不用意に剥がさないような、生暖かい時間が過ぎた。
久しぶりの学校は、休んでいた日のノートを写す事で休み時間も慌ただしく過ぎ去って行った。
五限目のホームルームの時間は、担任の柚木先生が、公立高校の受験対策を行っていた。
柚木先生はいつも笑顔を絶やさず、今でも口角を引き上げて目が頬に押しつぶされたような顔を真っ先に思い浮かべてしまう。
「天城君」
柚木先生に名前を呼ばれた。
教室の空気がガラリと変わったのを感じた。誰も声を出していないのに、さっきまでの張り詰めていた緊張感とも違う、胸がざわつくような空気が漂った。
クラス全体の視線が、僕と柚木先生の交互に行き来した。
柚木先生はそんなみんなの視線を気にする様子もなく、じっと顔を崩さずに、僕を見ていた。
「天城君は」
沈黙を破ったのは柚木先生だった。
「ずっと休んでたから仕方ないよね、お休み中に授業でやった所だったから」
柚木先生の声は、上ずって、声がかすかに震えていた。僕の方がいたたまれない気持ちになってしまった。
次の時間も、柚木先生の数学の授業だった。男子とも女子ともまるで友達のように接する柚木先生は、授業中も弾むように賑やかで明るい声を響かせた。
授業時間が残り僅かになった時、柚木先生は教科書を閉じ、教壇からクラスのひとりひとりを見渡しながら言った。
「知ってる人も多いと思うけど」
ざわと、胸が鈍く脈打つのを感じた。 「天城君はとても辛い事がありました」
瞼が痛くなるほど、力を入れて目を閉じた。悲しかったからではない。柚木先生の言葉が嬉しかったからでもない。
やめてくれと声を張り上げて叫びたいほど、怒りが胸の奥から湧き上がった。
「だから、三年一組のみんなで、天城君のことを支えてあげましょう」
学園ドラマのセリフを読み上げるように、たっぷりと抑揚を絡めて柚木先生は言った。今なら分かる、いや中学三年の僕も本音では分かっていた。先生の言うことは教師として間違ってはいない。
でも、だからこそ心の中でグラグラと、向かう場所のない怒りがこみ上げてくる自分がもどかしかった。
クラスの視線と期待が僕に注がれていた。
憐れむような、そして何かを急かすような目に耐えきれなくなって、僕は立ち上がり、深々とお辞儀をした。
頭を下げながら唇を噛み締めると、パチパチとまばらな拍手が徐々に教室に響き、頭上を覆い隠すように広がった。
頭を上げると、柚木先生が、そしてクラスの皆が、憐れむような顔で僕の方を見ていた。
その中でひとつ、はっきりと覚えている光景がある。
そのクラスには、奈々美がいた。
そして、クラスの皆が僕の方を振り返る中、奈々美だけはじっと前を見据えていた。




