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母親が安楽死ができるように、テレビ局や記者の立場を使って、手助けしてほしい。
穂乃果さんのお願いは、僕やディレクターの遠藤さんの想像とは、正反対のことだった。
「お願いします」
彼女は歩きながら、深く頭を下げた。
まだ15歳の少女の真摯な訴えを前に、情けないが思考がフリーズしてしまった。
静かな夕方の住宅街に、僕らの足音だけが聞こえる。
沈黙を自分のせいだと引き取って、穂乃果さんは叱られた子どものように、唇を結んで顔を伏せた。
「君の気持ちも、お父さんの気持ちも凄く分かるよ」
嘘ではない。すべて本音だった。
高校2年の時に、母親を癌で失った。
そして、昨年父を見送った。両親を亡くし、そして妻も、遠くない未来に失ってしまう。
そんな僕だからこそ、彼女に何かを伝えられる気がして、車を飛び出した。
それなのに、簡単に思いついた言葉のすべてが、声に出そうとした途端、虚しく響いて、何を言えばいいのか、分からなかった。
「僕らはあくまでも・・・」
これから言うことは、きっと的外れで、酷く彼女を傷つけてしまう言葉だろう。それが分かっているのに、相応しい言葉が思いつかない。
「それでも、僕たちはあくまでも取材をさせてもらうという立場だから、申し訳ないけど、何もできないんだ」
突き放すような、冷たい大人の対応に聞こえるだろうということも分かっていた。
案の定、彼女は諦めたような顔になって、薄い笑みを浮かべた。
「すみません、そうですよね」
笑顔のまま繰り返した。
彼女はこれから、母親を失う。
高校生の僕も母を失い、呆然と立ち尽くした。
もう会えない母の姿が、日常の中で見え隠れする度に、もう会えないんだという、途方もない現実に打ちのめされた。
「お母さんが安楽死をすることには、反対じゃないの?」
浅はかな質問だとは分かっていたが、聞かずにはいられなかった。
メールには続きがあったことを、穂乃果さんや父親には伝えていない。
わたしが死ぬまで、ぜったいに伝えないでくださいという結びの言葉と共に、死にたくない、諦めたくないと、何度も繰り返していた。
だが、それと同じくらい、夫や娘に迷惑をかけるのは嫌だと、苦悩を綴っていた。
その一方で、夫の敬之さんや娘の穂乃果さんは、苦しむ前に死にたいという、母親の意思を尊重し、決断を受け入れているように見えた。
たった一言、生きていてほしい、迷惑だなんて思わないから、ただ側にいて欲しいと伝えれば、何かが変わる気がしてならなかった。
当然だが、穂乃果さんから本音を聞き出したとしても、母親に伝える訳にはいかない。
「はい、お母さんが決めたことなので」
穂乃果さんは少し歩調を早め、そっぽを向いたまま早口で答えた。僕に表情を見られないように、そうしているのだろう。
「それでも最後まで・・・」
どんな言葉を投げかけても、立ち去ろうとする背中に、ナイフを突き立てるような行為だとは分かっていた。それでも、どうしても彼女から聞きたい言葉があった。
「最後まで・・・出来るだけ長く、お母さんと過ごしたいとは思わない?」
日本で治療を続け、緩和ケアを受ければ、スイスで安楽死を行うよりも、数週間、もしかすると数ヶ月、長く一緒に過ごせるかもしれない。
それは母親自身、メールに書いていたことだった。
「この前・・・」
穂乃果さんは足を止めて、住宅街の中にある、小さな酒屋を見つめた。店先に自動販売機やガチャガチャの機械が並び、店内にはお菓子やアイスなども売られているような店だ。
穂乃果さんは、どこにでもあるような、街の小さな酒屋を見て、足を止めた。
だが、何かを振り払うように、また早足で歩き出した。
「今の店に何かあるの?」
僕が尋ねても、穂乃果さんは無言で歩き続ける。切れ長な目元が、どこか涙をこらえているように見えた。
「少し前に、このお店の前を通ったときに、思ったんです」
これ以上、耐えきれなくなったというように、ポツリと彼女は漏らした。
店先に立ててあった、のぼりには、ソフトクリーム販売中とあった。色褪せて、かすんで、ポツンと取り残される。
穂乃果さんの言葉を待つ間、風に揺れるのれんを見た。
「小学生の頃、よくお母さんと、お菓子を買いに来てたんですけど、一度お店の前でアイスを食べて、それで・・・」
話しながら、段々と呼吸が浅くなっていくように見えた。
「思ったんです。なんで、こんなに」
何か言おうとしているが、上手く声にならない。
「こんなに大切な記憶なのに」
どうして、今まで忘れることができたんだろうって。
最後まで言い終えた途端、声は嗚咽に変わった。
取材のために訪れたはずなのに、カメラを向けることは出来なかった。ボイスレコーダーを起動することも止めた。今はただ、彼女の言葉に耳を傾けようと決めた。
苦しそうに、それでも絞り出すように言葉を続ける。
こんなに大切な記憶なのに、これまでふと思い出すことすらなかった、お母さんはこんな風に、私たちの前から消えてしまうんでしょうか。
ぜったいに嫌だと、言い終わる頃には、肩が揺れるほど、大きく息を吸い込んだ。
「すみません、急に」
ふと正気に戻ったように、穂乃果さんは謝って、今度は逃げるように早足で僕の元から遠ざかる。
きっと大丈夫、辛いよな、気持ちがわかるから、中途半端な慰めは心に浮かんでもすぐに打ち消した。
「お母さんに何か・・・」
僕が言葉の先を探していると、背中を向けた穂乃果さんが、小さく鼻をすする音が聞こえた。なぜだろう、泣き顔をはっきりと見てしまうと、決心できない気がして、彼女の背中だけを見て話した。
「伝えたいことはない? 僕にできることは・・・」
記者として、口にしてはいけないことだとは分かっていた。家族の決断に口を出すことなど、他人がすべきではない。
「わたしは・・・」
言いかけて、穂乃果さんの顔が歪む。また泣き出すのを我慢しているように、唇が少し震えていた。
「お母さんに安楽死なんて、してほしくないです」
ズシンと、何かが脈打つように、胸を叩いた。
自分から投げかけた質問なのに、子どもの心からの叫びに対して、ただ黙って頷くことしかできなかった。




