27
チューリッヒ中央駅を出て、最初に驚いたのは、あまりにも澄んだ空の青さだった。
目に飛び込んできた景色は他にいくつもあった。白熱灯の灯りが洩れるブティック、古いヨーロッパ建築の街並み。そのどれもが、美しかった。
だが、あなたにまず何を伝えたいか、僕が聞くと、妻は迷いなくこの空の色だと答えた。
だから、書き出しは、空の青さにすると決めた。
想像してほしい。
駅を出たあなたの頭上には、青い空がどこまでも広がっている。
その次はきっと、空気の冷たさに驚く。バターをたっぷり使った、甘い焼き菓子の匂いもするはずだ。
昔、海外旅行の候補として、二人で調べたことがあった。
その時のことを思い出しながら、僕と妻は街並みを眺めて歩いた。
ホテルまでの道は、なだらかな坂になっている。
どこかで、鐘の音が聞こえたなら、それはきっとトラムが近づくことを知らせるものだ。
道路の中央に、線路が走る。日本で言うところの、路面電車のようなものだが、青と白の近代的な車体が、古い街並みに不思議なほど溶け込んでいる。
妻はつま先立ちになって、周囲を見渡した。人々の営みを愛でるように、目を細めたあと、もう満足したのか、僕の方を向き直ると、「よし」と、大げさに頷いて、口角を上げて笑顔を作った。
石畳の道を歩く。
妻の横顔を見る。
指先で髪をかき上げると、赤らんだ耳が髪の切れ目から覗く。初めて訪れる場所なのに、街並みを眺める姿はどこか懐かしそうだった。
旅程を決めたその日。
スイスへの航空券は自分で予約すると、妻は言った。放置した洗い物を引き受けるような、日常の声色で言って、僕が返事をするよりも早く、パソコンのある部屋に戻ってしまった。
航空会社や旅行サイトのアカウントは僕が管理していた。これまで旅行に行く時には、すべて僕がチケットやホテルを手配していた。
それなのに、なぜ妻が自分で予約をすると言ったのか。閉じられたドアを見ながら、少し遅れて気がついた。
片道だけのチケットを、僕に取らせたくなかったんだな、きっと。
そんなことにすら、すぐには気付けなかった。これまで僕は、いくつの優しさを取りこぼしていたのだろうか。
あなたの話をさせてほしい。
あの日、病院から駅へと帰るバスの中、あなたは僕に教えてくれた。
これまで何度も、人生の壁というものにぶつかってきた。そのどれも、乗り越えることはできなかった。悲しそうな顔でそう漏らした。
壁を見上げ、途方に暮れて引き返す、そんな繰り返しだった。普通の人生を諦めきれず、未練たらしく壁の前をうろつくように、障害や死に関する書籍を読み漁った。
新しい言葉や新しい考え方に触れる度に、これこそが自分の欲しかった言葉だと舞い上がり、再び人生に挫折しては、それらを綺麗事だと切り捨てた。
この文章を書きながら、あなたのことを何度も思い出した。
幸せになっていて欲しい、とは思えない。
生きていて欲しいとも、やはり思えなかった。ひきつったように頬を震わせて、無理やり作った笑顔を思い出すと、ただこれ以上苦しんでいなければいいと、それだけを願ってしまう。
妻はずっと、そんなあなたのことを心配していたと、付け加えたい。
日程を書き残す。
スイスを訪れたあなたは、おそらくチューリッヒ中央駅近くのホテルに泊まる。
翌日には医師による診察が行われ、安楽死を受ける準備はできているのか、最終的な意思確認が行われる。
そして多くの場合、翌日に安楽死は行われることになる。
つまり三日間の旅の中で、最期の時間を過ごせるのは、二日目の午後になる。
僕と妻は、その時間を使って、スイスの街を観光した。
観光客向けの、小さな土産物店で、チョコレートの箱を手に取って、妻が僕に笑いかける。
「柿崎さんの家だと、これだと少ないかな?」
「それなら、こっちにする?」
いつもの買い物のように振る舞って、笑顔で答えた。楽しい時間にしようと努めた。
でも、本当は狂いそうだった。
現実に向き合ってしまうと、正気を保てる自信がない。
今、僕の隣で、嬉しそうにお土産を選ぶ妻が、明日のこの時間には、もうこの世にはいない。
この先の人生で、僕は今の時間を何度も思い出す。叫び出したいほど、この時間をもう一度手に入れたくなる。
それが分かっているのに、流れる時間を止めることができないことが、やりきれなかった。
目が見えるなら、もう一度見てみたい光景の一つに、あなたは幼い頃に行ったテーマパークを選んだ。
まだ幼いあなたの目の前を、煌びやかな車列が通り過ぎた。楽しかったなと、無邪気に笑い、一日でいいからあの頃に戻りたいと言ったあなたの顔を今も覚えている。
気が狂いそうになるのを、胸の中で押し殺した。そうしないと、きっと、泣きじゃくって、しがみついて、惨めに引き留めてしまう。
スイス観光を楽しんでいる妻の笑顔を崩したくなかった。最後の時間を、哀れみや申し訳なさで、満たしたくはなかった。
あなたも泊まることになるかもしれないホテルで、僕らは最後の夜を過ごした。
部屋の明かりを消すと、照明は小さなスタンドランプだけになった。木製の古い机に備え付けられた小さなランプ。その明かりだけがぼんやりと部屋を照らす。
最後の明かりを消せなかった。
暗闇の中で、妻の姿を見失うのが怖かった。
「消さなくていいよ」
僕の気持ちに気付いたのか、妻はそう言って、「朝まで、お話しよっか」と、僕の膝に、そっと手を乗せた。
時計を見ることが怖かった。残りの時間を数えてしまうことが、何よりも恐ろしかった。
「最後に、ひとつだけ教えてほしい」
最後。
覚悟をして口にしたはずなのに、胸に重たく、のしかかる。




