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ショッピングモールは、大勢の人で賑わっていた。
休日を楽しむカップルや家族連れを見ながら、噴水を囲う円形のベンチに腰を下ろす。
待ち合わせの時間まで、まだかなり時間があった。厚い雲に日差しが遮られ、冷え込みも激しくなっていたが、このまま外で待つと決めた。
近くには、気を遣わずに長居ができる馴染みの喫茶店やファミレスもあったが、それでも、外で待ちたかった。理由は僕にもわからない。
今日は、妻の実家を訪れるために、待ち合わせをしていた。
すでに、妻の両親は他界し、家には誰も住んではいない。いつか実家を整理しようと話をしながらも、慌ただしい日々に飲まれ、放置してしまっていた。
妻自身、ずっと心残りだったのだろう。昨日になって突然、実家の片付けをしたいと言い出した。
通路の先を見つめる。
学生時代もこうやって、曲がり角から姿を見せる奈々美を待っていた。
遠い視線の先、お互いに相手の姿が見えているのに、まだ声をかけるには距離がある。そんな時、いつも、どんな顔をすればいいのか分からず、照れたようにうつむいて笑うことしかできなかった。
そんなささいな、名前のないような記憶が蘇る。
すると、思い出の中の姿と重なるように、今の奈々美が目の前に現れた。
考える時間はいくらでもあったはずなのに、妻の姿を見た途端、胸から何かが溢れ出て、言葉にならなかった。
「行こっか」
奈々美の方が、沈黙を引き取って、最初の一言を口に出してくれた。
「雨、降るのかな」
奈々美は空を見上げながら言った。
「どうだろうな、一応折り畳み傘は一本、カバンに入ってるけど、天気予報だと」
僕も同じ空を見上げながら答える。
いつも待ち合わせをしていたショッピングモールから、5分ほど歩くと、奈々美の実家のマンションに着いた。
今はもう誰もいなくなった家の扉を開く。
部屋は、学生時代からほとんど変わっていない。本棚に並んでいる小説や家電などは、いくつか変わっていたが、模様替えもしていないので、部屋を眺めているだけで、学生時代の記憶が蘇る。
「ちょっと身体が冷えちゃったから、何か飲もっか」
奈々美が、部屋を見渡しながらつぶやく。
記憶を頼りに、しゃがみ込んでキッチンのキャビネットを開けた。
重ねた鍋の隣に、銀色のヤカンがあった。
変わっていない。変わっていなかった。
ただそれだけのことなのに、胸からえづくように、何かがこみ上げてきた。
落ち着こうと息を大きく吸ったが、小刻みに痙攣するように、ぶつ切りの呼吸になった。
目を閉じると、瞼から押し出されるように、涙がフローリングに落ちた。
咄嗟に、目を手で拭った。
奈々美はさっきからずっと黙っている。仕草で泣いていることがバレてしまうと気付いたが、それでも奈々美は何も言ってこなかった。
「ヤカンはあるけど、そう言えばまだガスって通ってるんだっけ?」
背中を向けたまま言った。
精一杯、声を弾ませようとしたが、ダメだった。なんでもない会話なのに、言葉が途切れ途切れになってしまった。
立ち上がろうとすると、背中から包み込むように、奈々美が僕の背中に腕を回した。
温かさに包まれると、もう涙を我慢することが出来なかった。その場にへたりこんで、子供のようにしゃくりあげながら、泣いてしまった。
伝えなければならないことが、いくつもあるはずなのに、言葉にならない。
奈々美は一言、「わかってるから」と言うと、さらに強く僕を抱きしめた。
僕はずっと、彼女を騙してきた。
あの日、奈々美が僕を川沿いの道へ誘い出してくれたあの日、彼女はきっと、安楽死を許諾する正式な通知が届いたのだと、僕に伝えてくれようとしていた。
それなのに僕は、自分の浅はかな企みがバレたのではないかと、最後まで自分のことしか考えてはいなかった。
「ごめん」
頭で考えるよりも前に、嗚咽と一緒に漏れ出てしまった。
「大丈夫だから」
僕の首元にそっと唇を近づけて、温かい息に声を織り交ぜた。
「ごめん」
向き直って、奈々美の胸にすがりついて言った。
今度はそう言おうと決めてから口にした。それでも、本当は目を見て言うはずだったのに、胸元に顔を埋めてからでないと、声になってくれなかった。
「これまでずっと隠してた」
目を見ながら、全てを話した。
彼女が命を断とうとしてから、僕がしてきたすべて。SNSのアカウントを作り、やり取りをしてきたこと、彼女が医師と会った日、そのやり取りを盗み聞きしていたこと。
奈々美は、深く何度も相槌を打ちながら、黙って話を聞いてくれた。咎める言葉はなかった。
僕の話を一通り聞き終えると、奈々美は一度、深く目を閉じた。
彼女だけの記憶と僕の話を照らし合わせるように、ゆっくりと落とし込んでいる様子だった。
「わたしも」
奈々美も、抱えていたものを吐き出した。一人で死のうとした時のこと、スイスの安楽死団体に申請を行ったこと。そしてそれが受諾されたこと。
奈々美が一人で抱え込んでいた、寂しさだった。
「俺も一緒に行くから」
僕がそう言うと、奈々美は一度だけ「大丈夫?」と心配そうな顔になったが、僕が頷いて見せると、「ありがとう」と言って、それ以上何も言わなかった。
「それならあと一つだけ、お願いがあるの」
夫としての僕ではなく、一人の記者として、頼みたいと言った。新しくできた友達のために、お願いがあると言って、イタズラっぽい笑顔で笑った。
立ち上がり、僕も笑顔で答える。「もちろん」と付け加えて、もう一度、一から笑顔を作って見せた。
妻の実家へと赴き、これまで僕がしていたことを、全て話した日のことだ。
妻が僕の涙を服の袖でぬぐって、もう一度抱きしめる。さっきまで床にこぼれていた涙が、地面に叩きつけられる前に、優しく妻の手ですくい取られた。
「ありがとう」
妻は言った。
「ひとりで泣かないでくれて」
そう言って、もう一度「ありがとう」と重ねた。
これまでもずっと、彼女が僕のことを心配してくれても、「大丈夫だから」と言葉だけで繰り返して、そっとその思いを突き返してしまっていたのだろう。
彼女から、たくさんのものを受け取っていたはずなのに、何も返せてはいない。
窓の外に目をやると、さっきまでほんのわずかベランダを照らしていた日差しは、また雲に覆われてしまっていた。
ここを出るまで、晴れていてくれればいい。もし雨が降っても、一本しかない傘は彼女に使ってもらおうと決めた。
素直に受け取らないだろうということもわかっている。雨が強くなれば、互いに傘を押しつけ合いながら、結局ふたりでびしょ濡れになるかも知れない。
その時は自分の方が濡れていることをこっそり誇りたい。駅に着いたあと、降り出した雨を窓越しに見ながら、一息つけたなら嬉しい。
来月、妻と僕はスイスへと旅立つ。




