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 大久保医師は、記者の言葉に答えず、ただゆっくりと目を閉じた。


「亡くなった時間を考えると、瀬尾佳代子さんに最後に会ったのは、大久保先生なのかもしれません。教えてください。彼女は何か話しましたか?」


 あからさまな挑発だった。

 大久保医師は、安易な発言はしないと意思を示すように、胸の前で腕を硬く組む。


「その女性のことは存じ上げませんが、あくまでも僕個人の考えを申し上げると」


 大久保医師は間違いのないよう、言葉ひとつひとつを選んで、慎重に語った。

「懸命に生きてきた人間の、死にたいという訴えの重みを、真剣に受け止めるべきだと思います」


 記者の男は、間髪入れずに返す。

「個人の思いとして、死にたい気持ちを尊重するお気持ちは分かります、ですが一度、安楽死が制度として成立してしまうと、生きるべきか死ぬべきかという選択肢を、突きつけてしまうことになると思いませんか?」


 この記者の言うことは間違ってはいない。安楽死が合法化されると、強者が弱者を合法的に殺してしまうことになる、ピントのずれた主張ではないのかもしれない。

 報道としての義憤と責任を背負う顔は、たしかに眩しかった。


 だが僕は、もう戻れそうにない。

 記者として、絶対に思ってはいけないことが、頭の中を支配して離れない。


 どうでもいい、心からそう思い至ってしまったのだ。

 最愛の人が今、なにより安らかな死を望んでいる。そんな時に、社会への影響や懸念など、どうでもいい。

 僕はもう、記者には戻れないのだと、受け止めた。


 男は、何かコメントを引き出すまで、諦めようとはしなかった。

「瀬尾佳代子さんは、本当に自分の意思で死を選びましたか? 自分が生きているだけで迷惑をかけてしまうと感じ、暗黙の内に強いられて死を選んだのではないですか?」


「先ほど、先生と呼んでいましたが」

 記者の男は、蛍さんに矛先を変えた。言い終えたあと、ベンチに立てかけてあった白杖をチラリと見る。

 それで蛍さんが抱えたものを察したようで、短く首だけで頷いたあと、「先生と呼んでいましたが、大久保先生とのご関係は?」と、今度はもっとはっきりと、蛍さんの方へと語りかけた。


 蛍さんもそれで、男の視線が自分に向いていることに気付いた様子だった。


「答える必要はありません」

 蛍さんが、きっぱりとした口調で答える。

「お話を聞かせてもらえませんか? もし・・・」

「何も話すことはありません」


 差し出された手を払いのけるように、記者の男が言い終えるより早く、否定の言葉を鋭く重ねた。


 大久保医師は、立ち上がると、黙ってエントランスの方へと向かった。蛍さんも大久保医師が離れたのを察し、僕の腕を取って、その場を離れたいと訴える。


「動画を見ました」

 記者の男は、立ち去ろうとする僕らの背中に、投げかけるように言った。


「あなたが安楽死の処置を行う動画を、警察に提供しました」

 安楽死という言葉はロビーの雑音に埋もれてかき消された。しかし、そこだけ切り取られたように、僕の耳にはっきりと届いた。

 

 大久保医師は立ち止まり、天井を仰ぎ見る。

 その表情を見て、確信した。

 彼の顔は、思いがけない追求を受けたというものではなかった。

 長い距離を走り終えたあとのような、充足した顔で、肩を揺らした。


 その姿を見て、僕も結末を悟った。


 大久保医師は近い内に、早ければ今日の内に逮捕される。先ほどまでの記者の追求の姿勢は、明らかに陥落を見越してのものだった。


 気付いていたのに、認めたくはなかった。国内で安楽死の処置を受けたい、そんなささやかな願いすら、僕は叶えてはやれなかった。


 エントランスを抜けて、バス停へと向かう。


 蛍さんはじっと何かを抱え込むように、静かに僕の半歩後ろを歩いた。


 重い何かを背負ったような背中を見て思う。


 彼女の人生はきっと、わずかな晴れ間と土砂降りの雨の繰り返しだった。雨の日の方が、ずっと多かったはずだ。

 背中を削るような激しい雨の中を、黙々と歩く。そんな人生の終わりは、青々とした空ではないのかもしれない。

 いつか晴れる、そんな言葉が気休めにすらならないことを、僕は知っている。だから、彼女にかけるべき言葉が、上手く見つからなかった。


「先ほど見せてくれた写真で」

 僕が声にすると、蛍さんは伏せていた顔を上げた。


 彼女がこの先、どのような選択をするのかは、分からない。それでも、彼女とはもう二度と会うことはないような気がしてならなかった。だから最後に、これだけは伝えておきたかった。

 

 いつだっただろうか、彼女はSNSに投稿していた。

 いつも一人だった。

 彼女の目の前を通り過ぎる人は何人もいたが、求めると皆去っていった。

 別れの言葉はない。呆然と待ち続けた末に、ようやく一人ぼっちになったと気付く。そんな絆とも言えない、一方通行の関係を何度も繰り返した。


「お母様は、写真の中で笑っていました。すごく幸せそうで、あなたも笑顔で」


 こんなことを伝えて、死ぬことを止めて欲しいとは思ってはいない。なぜだろうか。そんな幸せな時代が確かにあったのだと、彼女にも信じてほしくなった。


 蛍さんは立ち止まり、泣きそうな顔になって、僕のいる方を見た。


「ごめんなさい」

 一度謝罪の言葉を口にすると、堰を切ったように、何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返した。


「すみません、もし不快にさせてしまったなら」

「いえ違うんです」


 蛍さんは、苦痛に顔を歪めながら言った。

「さっき、嘘を吐いてました」

「嘘・・・ですか?」

「もし本当のことを言ってしまったら、あなたが私に協力する理由が無くなってしまうと思って」

 蛍さんは、身体を小さく前後に揺らして、落ち着かない様子で言った。

 泣いていた。

 

「あなたと繋がっていた電話を切る直前、奥様が教えてくれたんです」

 妻と蛍さんが、駅のホームで話をしていた時のことを思い出す。わずか、電車が走る音で、会話が途絶えていた。

「スマートフォンを見て、驚いた様子だったので、何があったのかを聞いたら」


 最後は消え入りそうになりながらも、ぐっと踏ん張るようにこらえて話した。


「スイスの安楽死団体から、安楽死の申請を受理すると、メールが届いたそうです」


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