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大久保医師は、ほんのわずか蛍さんの方へと視線を送ったあと、何か言おうとしたが、すぐに視線を外し、ふたたび僕の方を見た。
名刺を取り出し、大久保医師に手渡した。報道局の記者と、役職が印字されている仕事用の名刺だ。
今日ここには仕事の立場を捨ててやってきたつもりだが、近くにいる記者の男に気付かれないよう、医師にメッセージを伝えるためには、そうするしかなかった。
大久保医師は、名刺を一瞥すると、何も言わず白衣の胸ポケットに仕舞い込んだ。
「突然、押しかけて申し訳ありませんが、いくつか質問をさせて頂けませんか?」
型どおりの前置きをして、相手の出方を伺った。
大久保医師は、天井を仰ぎ見て、大きく息をついた。
簡単に取材を了承することはないと思ってはいたが、この場を立ち去らないということは、蛍さんが同行している理由を、探ろうという目論見があるのかもしれない。
目の端で、記者の男の方を確認する。今はまだ静観すると決め込んでいるのか、腕を組んで、受付番号を表示するモニターをじっと見ていた。
この男の前で、国内で行った安楽死について、大久保医師に認めさせる訳にはいかない。
大久保医師が、僕を警戒してくれるなら、それでいい。不用意に自身が行った安楽死について、発言をすることもないだろう。
この場に訪れた記者として、当たり障りのない質問を考えながら尋ねた。
「大久保先生は、安楽死について、講演や対談で何度も発信されていますよね? 先生ご自身として、日本国内で安楽死が制度化されることは支持されますか?」
大久保医師は、僕の質問の浅はかさを見限るように、短いため息をこぼした。
「自分の人生の決断は、自分で行うべきだからです」
大久保医師は、これまで何度もそう主張してきたというような、迷いも澱みもなく言う。こちらに一切の反論を許さないとでも言うように、「当然」と付け加えた。
次の質問を考えていると、蛍さんの口元がわずかに、震えていることに気づいた。
「先生は」
さっきまで黙り込んでいた蛍さんが、突然口を開いた。
記者の男は、よく見ていないと気付かない程度に、小さく体を前のめりにした。
受付番号を読み上げる、機械音が聞こえてくる。僕にとっては意味のない数字なのに、なぜか祈るよるに、その音に耳をすませてしまった。
蛍さんは、何か言おうと考え込む表情になった。
「どうして、突然、返事を返してくれなくなったんですか?」
大久保医師は、目の動きだけで彼女を伺い見る。僕も、流れに身を委ねるしかなかった。
蛍さんは、言葉を重ねる。
「先生のおかげで、もし本当に限界まで苦しくなったらいつでも死ねる、だから今日一日だけ、生きてみようって思えたんです」
再び、僕らの周りだけにだけ、沈黙が流れた。大久保医師は、蛍さんの言葉を噛み締めるように、ゆっくりと目を閉じた。
窓のカーテンの隙間から、ゆらゆらと日の光が差し込む。
「大久保先生」
沈黙を破ったのは、記者の男だった。ゆっくりと僕らの席へと歩み寄り、背後の席に座った。
「こちらの女性について、話をお聞かせください」
そう言って、スマートフォンを大久保医師の目の前に差し出した。
画面を見た途端、大久保医師は視線を外し、口元がわずかに歪んだように見えた。
「瀬尾佳代子、重度の精神障害を持つ43歳の女性。両親が他界してから、実の妹が引き取りましたが」
記者の男は、そこで一度言葉を区切って、画面をスクロールした。
僕の角度からもそこに表示された写真が見えた。
どこか古い集合住宅の中庭、花壇の手入れをする、一人の女性が写っていた。
「団地の敷地内にある花壇の世話が生きがいの女性でした」
写真の中のその人は、カメラを向けられていることが恥ずかしいというように、はにかんで下を向く。それでもどこか誇らしげに、片手でピースサインを作りながら、スコップで花壇の土を掘り起こしていた。
大久保医師は、全てを調べ上げた記者の追求に、狼狽するでも観念する訳でもなく、ただ椅子に深く背中を預け、全ての言葉を黙って受け止めていた。
記者の男は、視線を大久保医師に真っ直ぐ据えたまま、早口で続ける。
「誰かが通りかかるたびに、前置きも挨拶もなく、ニコニコと笑いながら花の知識を披露していました」
そう言って、画面を拡大し、女性の顔を大きく表示させる。
化粧っけがまるでなく顔立ちは幼いが、あどけない表情と不釣り合いなほど深い皺を刻み、真っ黒に日に焼けていた。
「近所の方々は、苦笑いでやり過ごすか、辛抱強く話を聞いてあげていたそうですが」
画面も記者の男の顔も見えてはいない蛍さんだが、段々と事情は飲み込んだようで、ただ唇を噛み締めて、何かを耐える顔になっていた。
記者は追求の言葉を止めない。
「本人はお盆に里帰りできることを、なにより楽しみにしてたそうだと、外出支援を行っていたヘルパーの方が言っていました」
大久保医師は、もう一度記者のスマホに目を落とす。表情は変わらない。
記者の男は、それでもスマートフォンの画面を向け続けたまま言った。
「瀬尾佳代子さんは、4ヶ月前、自宅のベッドの上で亡くなりました」
大久保医師が、膝の上に置いていた指の先が、ぴくりと動かした。
「大久保先生は、その日、彼女の自宅を訪れていましたよね?」




