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記者の名前は、思い出せなかった。
だが、細長のメガネに鋭い目、常に歯を噛み締めたように、角ばってエラが張るその顔は、はっきりと覚えていた。
記者会見の場で、一度顔を見たことがあった。
その頃の僕は、制作会社の報道制作部で、先輩について回っているだけだった。
大手新聞のエース記者の彼が、僕のことなど覚えているはずもないが、平日の昼間、病院の待合室の中では、浮いてしまっていないかだけ、気がかりだった。
車椅子の方へと目を向ける。
大騒ぎという程ではないが、近くの数人が、横目で彼らの方を伺い見て、やり場のない、戸惑った顔を浮かべた。
空の車椅子に乗せられた遺影があって、ここは病院だ。分かりやすい筋道を立てて、その意味を推測するには、十分なのだろう。
記者の男は、車椅子を押す女性に、何やら耳打ちをした。
優しく諭すような顔、口元は笑っているが、目は鋭くロビー全体を見渡していた。
うっかり、目が合ってしまわないように、慌てて目を伏せる。
もう一度、今度はもっと慎重に目線の先で追うと、車椅子を押す女性が、遺影を丁寧に紫色の布で包み、リュックの中にしまい込んでいるところだった。
「今、何時ですか?」
事情を知らない蛍さんが、僕に尋ねる。
テニスコート程の大きさの広い待合室だ。他に患者も大勢いるし、眼鏡の記者とも10席以上離れているので、声も聞こえないだろう。
だが、ロビーに少しでも声が響いてしまうことを警戒して、念の為、トーンを少し落として答えた。
「もう、12時を回ってます」
腕時計を膝の上で回転させ、時刻を確認する。
すると、蛍さんは僕の声の変化に気付き、察しよく聞き返した。
「何かあったんですか?」
「いえ、別に」
そう言いながら、視線を逃すために顔を上げると、眼鏡の記者が、真っ直ぐ射すくめるように、僕らの方を見ていた。
目が合った瞬間、心臓が跳ねるように脈打つ。
すぐに視線を外してしまう訳にはいかず、ゆっくりと待合室全体を眺め渡すふりをして、視線を漂わせた。
まだ、心臓の鼓動は落ち着いてはくれない。深くて後を引く、不安を掻き立てるような振動だった。
目の前にある不安と恐怖が、どこから生まれて、何を意味しているのか、昨日までの自分なら、分からなかっただろう。
今なら認める。
僕は、妻の最期を安らかなものにするために、医師を今ここで止めさせる訳にはいかない。
視界の端で、記者の男がゆっくりと立ち上がる姿が見えた。
「今、周りに誰がいますか?」
蛍さんが、さっきの僕と同じように、声を少し落としながら聞いた。
彼女が記者の存在に気付ける訳はないが、僕の言い方で、不安にさせてしまったのかもしれない。
「大丈夫です、このままここで待ちましょう」
冷静になって、落ち着いて対処しようとするが、
「いえ、違うんです」
蛍さんは、僕の肩口に顔を近づけて、さっきよりもさらに声を小さくしてつぶやいた。
「今、先生の声が聞こえました」
先生。彼女が指しているのは、安楽死を行った大久保医師のことだろう。
そう言って、蛍さんは受付の方に顔を向けた。僕も視線を向ける。
白衣の男性が、受付の女性と話をしていた。ちょうど、やり取りが終わったところだったのか、踵を返し振り返る。
その医師の顔を見た途端、これまでのすべてがつながった。
病院のホームページで見た写真、妻や蛍さんと密会していた時のジャケット姿。
大久保医師で間違いなかった。
大久保医師が、フロア全体を軽く見渡しながら、こちらに近づいて来る。
僕らの方、蛍さんを視界に入れると、明らかに瞬間、静止したように見えた。
蛍さんに続けて、隣に座る僕の方へと視線を送る。ただ、目に入ったというだけではなく、明らかに僕の存在を認め、こちらにも何か反応を迫っている視線だ。
僕も、視線を外さず、大久保医師に向けて小さく頷いた。
彼もそれで、全てではないだろうが、何かを悟ったようで、こちらにゆっくりと歩みよってきた。
「今、大久保先生が来ます」
蛍さんに伝えた。
記者がいた方を見ると、ソファーの狭い隙間を縫うように、記者の男が、こちらに向かって来るのが見えた。
蛍さんは、肩が揺れるほど、大きく息を吸い込んだ。
「ここまで連れてきていただいて、ありがとうございます」
受け取った何かをそっと返すように言った。
大久保医師が僕らの隣に座る。
その様子を見て、こちらに歩み寄ってきた記者の男は、僕らを伺いながら立ち止まり、一度周囲を見回して座席を探すふりをしてから、近くの座席に腰を下ろした。声を出すと、簡単に聞こえてしまう距離だ。
「手短に」
大久保医師は、ぞっとするほど冷たい声で、そう呟いた。




