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自動ドアが開くと、アルコール消毒液の匂いが鼻を刺した。
病院のエントランスに入ると、蛍さんはまた僕の肘をつかみ、「お願いします」と、案内を任せた。
彼女を待合室のベンチまで案内した。
平日の昼間、診察を待つのは高齢者がほとんどだ。
だが、ちらほらと、若い患者や小さな子どもの姿もあった。
事前に調べた病院のホームページには、最先端の癌治療や小児科、緩和ケアや精神科なども紹介されていた。
その中に、あの医師がいた。
あの日、遠く離れた場所からでしか、姿を確認できなかったが、調べれば調べるほど、彼に違いないと、確信した
緩和ケア専門の52歳の男性医師。
大久保茂樹。
過去には、実名で何度も安楽死に関する発信を行い、その全てで、日本にもスイスやオランダのような、安楽死「先進国」並みの議論が必要だと主張していた。
蛍さんをソファーに座らせる。
今日、蛍さんを連れてきたのは、彼女が希望したことがきっかけだったが、僕にはもっと重要な理由があった。
安楽死を処置した医師、大久保医師と話をしたかった。
だが、面識の無い記者がいきなり訪れても、無視されるだけだろう。
だから、蛍さんを連れてきた。記者として、これまでも関係者に同行し、取材対象に近づいたことは何度かあった。直接、会ったことのある蛍さんが目の前に現れれば、簡単に追い返すこともできないはずだ。
ここに来る理由を蛍さんには、はっきりとは伝えてはいなかった。だが彼女には見透かされていたのだろう。
僕はきっと、妻に安楽死を受けさせないための、理由を探しにやってきたのだ。
時刻は午前11時50分。
ここに来る直前に、事務局へと電話を入れていた。医師の名を告げ、12時にロビーで待つとだけ伝えて、電話を切った。
普通なら、相手にされることはないだろう。
だが、電話口で彼女、蛍さんの名前を告げた。
彼女のカルテを偽装した医師ならば、必ずここを訪れる、そう確信していた。
隣に座る蛍さんを見る。
気付くと、彼女の手にバスの中で見せてくれた写真が握られていた。
「奥様はきっと、納得してほしかったんだと思います」
蛍さんはそう言って、そっと写真を膝の上に置き、優しく手のひらで撫でた。
「納得、ですか?」
ロビーに置かれた、誰も座っていない空の車椅子を見ながら、言葉の先を促した。胸に、また新たなナイフが刺さってしまうことは覚悟していた。
「安楽死自体に納得することじゃなくて」
安楽死。
病院のロビーで交わすべき言葉ではないことは分かっている。目だけで周囲を伺い、誰もこちらを気にしていないことを確認してから、「はい」と相槌を打った。
蛍さんは僕が勘違いしないよう、先回りするように、慎重に前置きして続けた。
「納得できるストーリーがないと、遺される方って、きついじゃないですか」
最後は苦しまずに死ねた、自分で選んだのだから、悔いはない。幸せな人生だった。
そうやって、亡くなった人を何度も何度も頭の中で繰り返し、死を肯定し受け入れる。
「何かしてやれることはあったんじゃないかっていう後悔とか、死んだ後に残っちゃうと、遺された方は一生引きずっちゃうから」
話すことで何かを紛らわせようとしているのか、間隔を置かずに話し続ける。唇の震えがそのまま声に乗ったような、ぎこちない喋り方だったが、相槌だけはしっかり返そうと努めた。
蛍さんの言葉と、取材で聞いた田所美智子さんの言葉がリンクする。
美智子さんは、遺された人間は、亡くなった人の最後の言葉にすがってしまうと話していた。
腕時計に目をやると、すでに12時を回っていた。
ロビーを見回す。
まだ、大久保医師の姿は確認できない。
さらに、待合室のベンチを流すように見ると、誰も座っていない車椅子を押す、一人の高齢の女性が目に入った。
松葉杖の患者や、車椅子を押す家族は他にも何人もいた。
それなのに、その高齢の女性だけが、くっきりと浮き出しているように、集団の中で異質に見えた。
その女性は、リュックから何かを取り出した。怒りに満ちた顔で、強い覚悟や信念を感じさせる目、僕はこれまでの取材現場で同じような人に何度も出会っていた。
高齢の女性は、リュックから取り出した雑誌ほどの大きさの何かを車椅子に乗せた。
人の流れにかき消されながらも、その様子を凝視した。
その女性が車椅子に乗せたのは、一枚の写真。顔半分を髭で覆われ柔和に笑う一人の男性の写真。
遺影だった。
僕はその男性に見覚えがあった。
蛍さんが妻に送った動画の中、薬剤を飲み干し、安楽死を受けた男性だった。
そして、車椅子を押す女性の背後に、一人の男の姿が見えた。寄り添うように側に立って、大丈夫と言うように、そっと肩を叩く。
僕はその男のことも知っていた。
東京の大手新聞社で働く記者だった。




