21
その病院は、街を見下ろす山の頂上にあった。
長く地域医療を支えてきた総合病院に相応しい広大な敷地の中、どこかにあの医師がいる。
病院前のバス停で降りた僕と蛍さんは、長い遊歩道を歩いていた。
医師に会う前に、どうしても蛍さんに確認しておかなければならないことがあった。
「前回、医師にあった時に、一緒にいた女性のことなんですけど」
蛍さんの半歩先を歩きながら尋ねた。大学時代、視覚障害のある学生の歩行介助をしたことがあったので、その記憶を思い起こす。
彼女は僕の肘をつかみ、何も言わず後ろを歩いた。
「あの後も、何か連絡を取っているんですか?」
蛍さんは返事をしない。
だが、彼女の手から、そっと力が抜けていくように感じた。
蛍さんの目になって、先導しているはずなのに。すべてを見透かされて、僕の方が置いてけぼりにされているような、心細さが胸に漂う。
彼女は、すべて気付いているのかもしれない。もちろん、僕の思い過ごしということもあるだろう。でも、全てを話さないと、前に進めない気がした。
「すみません、もっと早く話すべきでした」
言い訳や回りくどい表現を思いつく前に、勢いのまま口にした。
「彼女は僕の妻です」
言い終えても、後ろを振り返ることはできなかった。
前を向いたまま、さっきまでと同じペースで、病院までの短い坂道を登る。
蛍さんは、僕の肘から手を離し、代わりに白杖を右の手に取った。
「もう、大丈夫なので」
地面を指しながら言う。導かれるままに白杖の先を見ると、点字ブロックが続いていた。
「一人で歩きます」
そう言って、白杖を左右に振る。僕はぶつかってしまわないよう、後ろに下がった。
「途中で、気付きました」
彼女はそう言うと、早足で先へと進んだ。
やはり蛍さんは、同行していた女性が、僕の妻だったと察していた。おそらく、夫が記者をしているという妻の言葉で、全てが繋がったのだろう。
後を追いかける格好になった僕は、彼女の背中に投げかける。
「電話を切ったあと、何を話したんですか?」
問い詰めるような言い方はしないつもりだったのに、歩調の早さと相まって、言葉の勢いも強くなってしまった。
白杖が、コンクリートを叩く音だけが響く。
「あのままだと、フェアじゃないと思ったので、電話を切りました」
蛍さんは、一度立ち止まったが、周囲の音を探るように首を動かしたあと、再び歩き始めた。
「フェアじゃないとは?」
単語を拾って、そのまま聞き返す。早く答えを知りたいはずなのに、僕の胸を深く刺してしまう言葉を警戒して、返事が返ってくることが恐ろしくてたまらなかった。
「もしも、ご主人が反対しても、本当に死にたいのか、奥様に聞いたんです」
まさか、そんなことを聞いていたとは、想像もしていなかった。
蛍さんは、僕がショックを受けることを予想していたように、あとの言葉は優しく語りかけるような口調で話した。
「あなたが隠れて聞いているのに、それを質問しちゃうと、フェアじゃないと思ったんです」
なぜ蛍さんが、妻にそのようなことを聞いたのか、すぐには理解できる気がしなかった。胸に浮かんだ疑問は一度かき消して、一番、聞かなければならないことだけを、真っ直ぐに尋ねた。
「妻は何と答えたんですか?」
蛍さんが立ち止まり、僕の方へと向き直った。
まだ何も口にしてはいないのに、彼女の瞳が、僕を憐んでいるように見えて仕方がない。
僕らの側を、車椅子を押す若い女性が追い越していく。
もうとっくに小学校には上がっているはずの年齢に見える男の子が、車椅子から身を乗り出し、僕らの方を見て笑っていた。
「たとえ反対されても、一人で安楽死を受けると言っていました」
蛍さんの方を見れなかった。遠ざかる車椅子に、目の焦点を当てながら、ただ呆然と話を聞いた。
「もし、安楽死ができなくても、どんな方法かは分からないけど、絶対に一人で死ぬつもりだとも言っていました」
全ての希望のようなものが打ち砕かれて、頭の中の何もかもが、暗い想像に覆われた。
僕はきっと、いつかどこかで、妻を説得できるはずだと、現実から目を背けていたのだろう。
もう、どうすることもできないのかもしれない、ずっと気付いていたはずなのに、本当にもう引き返せないのだと、胸の奥から何かが溢れ出す。
「なんでなんでしょうか。妻はなんで」
涙だけは流さない、そう決めてから声にした。
「なんで、少しでも長く、僕と生きることを選んでくれなかったんでしょうか。どうせ最期には苦しんで死んでしまうのなら、今死んでも同じだと、なんで思わせてしまったんでしょうか。僕と一日でも長く一緒にいることは、妻にとって意味のないことなんでしょうか」
さっきよりも、くっきりと、蛍さんの顔には憐れむような、慈愛のような何かが浮かぶ。
息を整えて、改めて言う。
「妻は、僕が何をしているか、知っているんですか?」
蛍さんは、首を横に振って否定した。
蛍さんは、病院までの道筋をまっすぐ、迷いなく歩いた。
「天城さんは」
前を向いて歩きながら、蛍さんが言う。
なぜだろう、入り口に着くまで、もう僕の方を振り返らない気がした。
「先生に会ったら、どうするつもりでここに来てたんですか?」




