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安楽死を行う場所は、病院ではなかった。
ホテルを出て、いくつかの細い路地を抜けると、3階建ての古いアパートが見える。
深い灰色の建物、その一室に、旅の最終目的地となる部屋はあった。
ドアを開き、広い廊下を突き当たりまで進む。
12畳ほどのリビング、その窓際に大きなリクライニングベッドが置かれている。
窓からは、スイスの街並みが広がる。ベッドに仰向けになると、ちょうど古い教会の尖塔が見える、妻は嬉しそうに、そう教えてくれた。
担当したのは、60代の女性医師だった。ジーンズに赤のセーター、短く整えた白髪は凛々しく、穏やかな笑みで僕らを迎えた。
妻はある程度、英語でやり取りができたので、受け答えもスムーズだった。
安楽死を受ける意思確認、遺体処理の方法などが記された誓約書を、医師の女性が読み上げる。
全てを聞き終えたあと、妻は誓約書にサインを行った。
昨日、ホテルの部屋で聞いた。
一人でも、死ぬつもりだったのか。
妻は迷いなく、「うん」と答えた。
僕の顔を確認してから、ゆっくりと口角を上げる。そんな笑い方をする人ではなかったと知っている。
さらに今度は、本当に聞きたかったことを尋ねた。
僕のしたことは、間違っていたのか。
妻は首を横に振って、笑顔で僕を見つめた。これまでも何度も目にした、いつもの妻の笑顔だった。
「それでは、ベッドに移りましょうか」
白髪の医師は、妻の肩にそっと手を置いて告げた。
妻は一度僕の方を見て頷いたあと、ベッドへと向かった。
安楽死を行うと言っても、医師が直接薬剤を投与することはできない。
安楽死が認められているスイスであっても、あくまでも医師は補助を行うという建前だ。
妻はベッドに上がり、緩やかな傾きのリクライニングに背中を預けた。
医師は淡々と点滴の準備を始める。
妻を見る。彼女は僕の視線に気付くと、そっと微笑んだあと、窓の外に目をやった。
医師が妻に、板状の小さなスイッチを手渡し、肩をそっとさすりながら、英語で説明を始めた。
ボタンを押せば、ストッパーが外れ、薬剤が流れ込む。
スイッチを手に持つと、妻の手が震え出した。見た目にも分かるほど、呼吸も荒くなっていく。
怯えていた。
これから死ぬ。
平気なはずはないのだ。それなのに、これまでずっと、僕の前では、毅然と運命を受け入れているように見せていた。
ベッドが揺れるほど、震え出した。こんなにも怯えているのに、何もしてやれない。今になってまだ、生きることを選んでくれと祈ってしまう。
医師が英語で最後の確認をする。
名前、生年月日、安楽死を希望する理由を尋ねる。
流暢ではない英語だが、妻は懸命に答える。医師も、深く相槌を打ちながら、熱心に聞き入っている。
妻が安楽死をしたいと言い出してから、資料映像を何度も確認した。その光景と同じ光景が、今目の前で行われている。
だから、質問が残り1つなのだということも、分かってしまっていた。
「このスイッチを押せば、何が起こるか理解していますか?」
医師の女性は、ゆっくりと、聞き取りやすい英語で言った。
妻は大きく息を吸い込む。
「はい、私は死にます」
きっと、何度も頭の中で繰り返したであろうフレーズを読み上げた。
医師が僕に目配せをした。
ベッドへと歩み寄る。
側には椅子も用意されていたが、床に膝をついて、妻の顔に手のひらを添えた。
温かい彼女の体温を逃したくない。肌を感じていたい。何度も妻の頬を撫でた。
「ごめん」
妻がつぶやく。聞き逃したくなくて、妻の口元に耳を近づけた。
「ごめんね」
もう一度、繰り返す。
彼女の目を見ながら、「分かってる」と頷いた。頬が痛くなるほど、奥歯を噛み締めた。泣き顔で見送る訳にはいかない。
「一緒に来てくれて、ありがとう」
妻は、僕の胸に顔を埋めながら、初めて涙を流した。
スイッチに手を伸ばす。
そっと、微笑む。
妻は、スイッチを押した。
点滴のストッパーが外れ、透明の液体が管を通って、彼女の中へと流れ込んでいく。
「怖い、怖い・・・」
僕の目を見つめながら震える。
「ねえ、頑張ったって、言って」
頷いて、応えた。
すぐには言葉にならなかった。
「頑張ったな」
妻の髪を撫でた。
死にたいと、一度だけ妻に漏らしたことがあった。自殺未遂をした妻の目が覚めた日、君が死んだなら、この先の人生を一人で生きたいとは思えない。
自暴自棄になって、妻にそうぶつけた。
僕たちは、自分の命を脅しに使って、互いにナイフを突きつけ合っている、そんな風にも思った。
最愛の人を失って、この先の自分だけの人生を思い浮かべることが、何より怖かった。
妻を失い、両親もいなくなって、独りになって、自分は誰のために生きていくのか。考えることが恐ろしかった。
「ありがとう」
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
震えながら繰り返した。
もう、妻の耳に届いているかは分からない。
妻は、ちょうど、祈りを捧げるような格好で、胸の上で手を合わせて眠る。
僕は、その上に、そっと自分の手を重ねた。
妻を見送ったあと、荷物を取りに、ホテルの部屋へと戻った。
つい2時間前、妻と二人で過ごした部屋に、僕一人で戻る。
胸がバラバラに千切れそうなほど、苦しかった。部屋に入ると、胸を潰されたように、息ができなくなって、涙が止まらなかった。
妻は、帰ってきた僕が受け止めるその寂しさを分かってくれていたのだろう。綺麗に整えられたシーツの上に、絵葉書が何枚も置かれていた。
スイスに到着してすぐのことだ。日本でお世話になった人たちに、最期に何かを書きたい。懐かしい人たちの名前を一人一人、大切そうに口にして、1時間以上かけて絵葉書の束を買っていた。
『日本に帰るまでの間、暇だと思うので、行ってみてください』
帆船の描かれたカードにそう書かれていた。
一人でも入りやすそうなカフェ、おすすめの美術館、街並みを一望できる高台、そして、日本に帰ってからも、「ここも行ってみて」と、様々な場所が記されていた。
日本に帰ってからの、僕の日常も書いておきたい。
安楽死を特集した回は、いくつかの紆余曲折はあったが、無事オンエアを迎えた。テレビ局が懸念していたような、炎上にはならなかったが、SNSの反響は過去の放送に比べても、はるかに多かった。
『もうどうやっても這い上がれないなら、終わらせる自由がほしい』
『痛みと恐怖がなくなるなら、今すぐにでも安楽死をさせてほしい』
ハッシュタグに寄せられた投稿を読みながら、あなたのことを何度も思い出した。
無事に放送が終わったことを、奥様に報告をさせてほしい、田所さんに電話を入れると、穏やかな声で「妻も喜びます」と、夫の敬之さんは快諾してくれた。
線香の匂いが漂うリビングに通された。
仏壇を見る。写真の中の美智子さんは、ただ穏やかに笑っていた。
「一番大切な時に、奥様の側に寄り添えず、申し訳ありませんでした」
僕は記者として、スイスへは同行できなかったことを詫びた。
田所さんは、僕の言葉を掬い取るように、「皆さんには、本当に感謝してます」と、静かな声で返した。
結局、遠藤さんとカメラマンが美智子さんと共にスイスへと立ったが、夫の敬之さんと娘の穂乃果さんは、日本で最期の別れを終えた。
番組では、放送できなかった場面がある。
敬之さんは、3人分のパスポートもチケットも用意し、直前まで美智子さんの心変わりを待っていた。
夫として、妻の思いは尊重したい。妻を一人で死なせたくない、そのどちらも正しくて、真っ直ぐで、きっと最後まで悩んだのだろう。
空港まで見送りに行った二人は、パスポートとチケットを、カバンに忍ばせたまま、笑顔で見送った。
「天城さんも、大変でしたね」
田所さんには、僕が取材の途中で離脱した理由を伝えていた。
妻が安楽死を行ったとは話してはいない。ただ、妻を看取ったとだけ、伝えて欲しいと、遠藤さんに頼んでいた。
「病気って不思議ですよね、一番苦しいのは本人に決まってるのに、残された方が右往左往してしまって」
そっと、肩に手を置くような、穏やかな声で話す。そんな田所さんの優しさに甘えるように、思いが漏れ出てしまっていた。
今の僕の日常を吐露した。
緊急で届いた仕事のメールを書き終え、リビングに戻る。さっきまで妻と一緒に観ていた海外ドラマは、一時停止の画面になっている。長くなるかもしれないから続きを見ていてくれてもいいよと言ったのに、退屈そうに僕を待つ。
ソファーに座る妻が、早く座ってと唇を尖らせて僕に手招きをする。
目が覚めて、すべて夢だったと気付く。
「妻が死んだことが夢なんじゃなくて、さっきまで隣にいた妻の方が夢だったって、段々と頭がスッキリしていくと、気付くことが、今は何より辛いです」
話しながら、苦しくなってしまい、最後の方は掠れ声になってしまった。話しながら、重くなってしまった空気に耐えられず、どうにか、笑い話にできないかと、バカみたいですよねと自嘲したが、田所さんは何度も頷きながら、「分かります」とだけ、伝えてくれていた。
「覚えていてあげることしかできないから」
田所さんは、遺影の中の美智子さんを見ながら、僕に語りかけた。
「僕らが覚えていたら、またそうやって会いに来てくれますよ、きっと」
遠いどこかへ行って、僕がまだ見ていない、はるか向こうの景色を教えてくれるように、語りかける。
これからの人生が苦痛だけで満ちているなら、なぜ僕は今も生きているのか。何度も考えた。
答えはまだ、何も出ていない。
だが僕は、その後を生きる。妻が生きられなかったその後の人生を生きる。その先で、妻に話したい何かが、見つかるかはわからない。
亡くなった母親に、また会える気がすると語った遠藤さんを思い出す。生まれ育った家から出ず、孤独の中に死んだ会ったことのない誰かのことも、胸に浮かぶ。
天国は信じていない。
生まれ変わりも、きっとないのだろう。
これまでの人生で、当たり前に受け入れていた現実が、今になって揺らいでいる。
祈る、自分のためではなく、愛する人たちのために、天国があってくれと、心から祈った。
(了)




