第4話 「私の妻に、指一本触れるな」
屋敷での日々は、まるで、嘘のように穏やかだった。
行き倒れる前の私には、想像もできなかったような、暖かさ。けれど──その平穏は、ある朝、突然、破られることになる。
きっかけは、些細な出来事だった。
裏庭で、若い庭師が、誤って鎌で深く指を切ってしまったのだ。鮮血が雪を染め、見ていた使用人たちが、青ざめる。
「医師を、早く!」
誰かが叫んだ。けれど──
気がつけば、私の身体は、勝手に動いていた。
「失礼、します」
ひざまずき、震える庭師の手を、両手で、そっと、包む。
不思議だった。何かが、胸の奥から、ふつ、ふつ、と、溢れてくる。淡い、温かい、光のようなもの。
(──癒して、あげたい)
ただ、それだけを、願った。
次の瞬間──私の手のひらから、淡い金色の光が溢れ、庭師の傷を、じわりと、包み込んだ。
血が、止まる。
裂けた皮膚が、ゆっくりと、塞がっていく。
「な──」
「聖女、様……?」
ざわめきが、波紋のように、広がっていった。
私は、自分の手のひらを、呆然と、見下ろしていた。
(……魔力が、あった?)
出来損ないと、嘲られ続けてきた、私に。
(それも──浄化の、力?)
異母妹のソフィアにすら、発現しなかったはずの、最高位の聖女の力が。
「──エルサ」
低い声に、はっと振り向く。
回廊の柱に凭れ、ゼクス様が、こちらを、見ていた。
その蒼い瞳には──驚愕ではなく、歓喜ですら、なく。
痛ましいような、何か、深い色が、湛えられていた。
「やはり、お前は──」
そう、呟きかけた、その時だった。
「公爵様! 大変です!」
血相を変えた家令が、回廊の向こうから、駆けてきた。
「隣国──ロイドリヒ王国より、使者が。第一王子ルシアン殿下、御自ら、当家へ、お越しでございます」
──瞬間。
私の心臓が、凍りついた。
* * *
客間に通されたルシアン殿下は、私を見るなり、貴族然とした微笑を、作って見せた。
「探したぞ、エルサ。──さあ、迎えに来て、やった」
二ヶ月前、私を面てで嘲った、その同じ唇が。
「我が国は今、原因不明の瘴気に、蝕まれている。浄化の力を持つ、聖女が必要なのだ。お前のことは、もちろん、丁重に──」
「──お断り、いたします」
遮ったのは、私自身の声だった。
自分でも、驚くほどに、冷たい声で。
「エルサ、お前──」
「私は、もうあの国の人間では、ございません。婚約破棄され、追放された身に、何の義務も、ございません」
「黙れ!」
殿下の顔が、初めて、醜く、歪んだ。
「貴様の意思など、聞いておらん! 聖女である以上、国に尽くすのが──」
「──兵を呼ぼうか、ルシアン殿」
静寂を裂いて、低く、底冷えのする声が、響いた。
扉の前に、ゼクス様が、立っていた。
蒼い瞳が、これまでに見たことのない、剣呑な光を湛えて、ルシアン殿下を、見下ろしている。
「ヴェルナール公爵領で、客人を威圧する。──戦争を望まれるのか、貴殿は」
「な、何を……エルサは、我が国の聖女、だ!」
「お前の元婚約者だろう、確か」
ゼクス様は、ゆっくりと歩み寄りながら、嘲るように、唇の端を、上げた。
「衆人環視の中、自ら捨てた女を、力ずくで取り戻しに来た、と。──正気か」
「貴様……!」
「いいか、ルシアン殿」
ゼクス様は、私の前に立ち、その背で、私を、ルシアン殿下から、完全に遮った。
広い、頼もしい、背中。
「エルサは、我がヴァルトハイム公爵家が、命を懸けて庇護する、大切な人、だ」
そして、振り返りもせずに──ゼクス様は、はっきりと、こう、告げた。
「──私の妻に、指一本、触れるな」
瞳を、見開いた。
ルシアン殿下が、絶句している。顔が、見る間に蒼白に、なっていく。
私自身、頭が、追いついて、いかなかった。
(つま──?)
それは──嘘? その場しのぎ?
それとも──
ゼクス様が、ようやく、こちらを振り返った。
その蒼い瞳には、もう、剣呑な光は、消えていた。
代わりに、湛えられていたのは──ひどく、ひどく、優しい色。
「すまない、エルサ」
そう、囁くように。
「だが──許してくれ。私は、二度と──お前を、失いたくないのだ」
「二度と……?」
瞼を、瞬かせる。
二度と、とは──どういう、意味?
その問いの答えが明かされるのは、もう少し、先の話。
けれど、確かに、この時。
私の中の何かが、ゆっくりと、形を取り、始めていたのだった。




