第5話 ずっと、探していた
ルシアン殿下が、ほうほうの体で屋敷を去った後。
書斎に通された私は、暖炉の前のソファに、ゼクス様と、向かい合って、座っていた。
薪の爆ぜる音だけが、二人の間を、ゆっくりと、埋めていく。
「……エルサ」
長い沈黙の後、口を開いたのは、ゼクス様の方だった。
「十年前──」
静かな、けれど、どこか震える声で。
「お前は、王都の外れの、小さな小川のほとりで──ひとり、泣いている男児に、出会ったことを、覚えているか」
息を、呑んだ。
十年前。
私が、まだ、八歳だった頃。母を亡くしたばかりで、母とよく散歩した小川のほとりに、ひとり通っていた、あの頃。
記憶の底から、ゆっくりと──浮かび上がってくる、ひとつの光景。
「……銀髪の、男の子」
ぽつり、と。
「腕に、酷い火傷を、していて……追手から、逃げていた──」
「覚えていて、くれたのか」
ゼクス様の声が、わずかに、震えた。
「あの時、私は──父を暗殺され、自分も命を狙われ、無我夢中で、逃げていた。腕の火傷は、もはや、毒に冒されていた。──助からない、と、思った」
暖炉の火が、ゼクス様の横顔を、ぼう、と橙に、染める。
「そんな私に──お前は」
貴方の蒼い瞳が、ゆっくりと、私を、見つめた。
「『大丈夫よ』と、笑ってくれた。何を考える間もなく、私の腕に手を当てて──淡い金色の光で、毒を、浄化してくれた」
「あ──」
胸の、奥が。
何か、温かいもので、満たされて、いく。
記憶の中の、痩せた、銀髪の少年。震える肩に、ただ、温かくしてあげたかった、あの時の私。
「──貴方、だったの」
「私は、自分の名前すら、満足に告げられなかった。お前は、迎えに来た私の従者を見て、にっこり笑い、『元気でね』とだけ言って、走っていって、しまった」
ゼクス様は、苦しげに、息を、漏らした。
「それから十年──私は、お前を、探し続けた」
「……十、年」
「ロイドリヒ王国に、浄化の力を持つ少女がいる、という噂は、聞いていた。──だが、聖女として祭り上げられているのは、別の少女だと、聞いていた」
瞳を、伏せて。
「もっと、早く、お前を、見つけに行けばよかった。──虐げられていた、と、後から聞いた時、私は、自分を、許せなかった」
「ゼクス様……」
「だから、雪の中で、お前を見つけた時──」
ゼクス様の、頬が。
紅く、染まった。
「私は、神を信じる男ではない。だが、あの時ばかりは──奇跡というものを、信じた」
暖炉の音が、やけに、大きく、響いていた。
瞳から、何かが、ぽろり、と零れ落ちて。
頬を伝う、それが涙だと気づくのに、しばらく、かかった。
「気づかなくて、ごめんなさい」
「謝るな」
ゼクス様が、立ち上がり、私の隣に、そっと、腰を下ろす。
広い手のひらが、怖ず怖ずと、私の頬の涙の粒を、そっと、拭ってくれた。
「ずっと──探していた」
額を、合わせるように、近づいて。
「もう、放さない。──いいか、エルサ」
息が、触れる距離で。
蒼い瞳が、私だけを、映していた。
「妻に、なってくれ。形だけでなく、本当の意味で。──私の傍に、いてくれ」
問いかけ、というよりは。
祈り、のような、声で。
頷いた、私の唇に。
雪のように、柔らかな口づけが、降ってきた。
* * *
それからの日々は、夢のようだった。
ゼクス様の支援のもと、ロイドリヒ王国の瘴気は、私の浄化の力で、無事に、晴れた。「真の聖女」として、私の名は、大陸中に、轟くことになる。
ルシアン殿下は、真の聖女を虚りで追放した責を問われ、王太子の地位を剥奪。異母妹のソフィアは、自分の意思で修道院に入り、静かな生活を、選んだ。
そして私は──春の盛り、薔薇が咲き乱れるヴァルトハイム公爵家の庭で、ゼクス様と、結婚の誓いを、交わした。
「愛している、エルサ」
耳元で囁かれた、その言葉に。
「──私もです、ゼクス様」
微笑みながら、答える。
王宮の片隅で、息を殺すように暮らしていた、あの頃の私には。
想像もできなかった、未来。
けれど、確かに、あの夜──絶望の底で見つけた、あの小さな灯は。
本当に、私のこれからを、変えてくれたのだ。
銀髪の貴方という、世界で一番温かい光に、導かれて。
私の物語は──ここから、始まる。
<完>




