第2話 行き倒れの少女と、氷の公爵
国境を越えた──というより、越えてしまった、というのが正しいのかもしれない。
王宮を追放されてから、何日が経っただろうか。
最初の二日は、街道沿いの小さな宿に身を寄せることができた。母の形見の銀のロケットを、惜しみつつも質に入れた、ささやかなお金で。
けれど──そのお金も、すぐに尽きた。
侯爵家からは、相変わらず文ひとつ届かない。「出戻りは許さぬ」というあの一文だけが、私の背中を苛み続けていた。
頼れる縁者もない。住むところもない。
それでも私は──歩き続けていた。
なぜだろう。あの夜空の下で感じた、あの小さな灯。あれだけが、私を立ち上がらせ続けていた。
「……どこかに、人里が」
呟いた声は、自分でも掠れているのが分かるほど、弱々しかった。
国境の森を抜けた頃には、季節外れの雪が、ちらほらと舞い始めていた。隣国──ヴェルナール公国。冷涼な気候で知られる、北の大国。
ドレスの裾は泥にまみれ、革靴の底は擦り切れている。空腹と寒さで、指先の感覚は、もう、ほとんどなかった。
(……ああ。きっと、ここまでなのね)
一歩、二歩。
三歩目を踏み出した時──膝が、ふっと、折れた。
冷たい雪に頬が触れる。視界が、ゆっくりと、白く霞んでいく。
(ごめんなさい、お母さま──)
最後にそう、心の中で呟いた、その時だった。
「──おい」
低く、よく通る声が、頭上から降ってきた。
瞼が、重い。それでも、必死に薄目を開ける。
逆光の中、私を見下ろしていたのは──息を呑むほどに整った、青年の顔だった。
雪を撚り合わせたかのような銀の髪。凍てついた湖を思わせる、深い蒼の瞳。冷たい美貌、というのは、こういう人のことを言うのだろう。
「死ぬぞ、こんなところで」
声は、冷たかった。けれど──不思議と、突き放すような響きはなかった。
「す、みません……ご迷惑、を……」
「喋るな」
短く言うと、青年は腰を屈め、躊躇なく、私の身体を抱き上げた。
ふわり、と。羽毛のように、軽々と。
檸檬のような、清廉な香り。滑らかなマントの感触。鎧の下、確かに伝わってくる、温かい人の体温。
凍えていた身体が、急に思い出したように、震え始めた。
「あ、あの……」
「黙っていろ」
青年は前を向いたまま、淡々と、告げた。
「死なせるつもりは、ない」
その横顔に、何故か──瞼の奥が、じわりと熱くなった。
「殿下! その者は──」
少し離れたところから、慌てた様子の従者らしき男が、駆け寄ってくる。
「こ、公爵様、見ず知らずの娘を屋敷へ連れ帰るなど、あまりに……」
「うるさい」
青年──公爵、と呼ばれた人は、低く、一言、そう、言った。
「黙って馬車を出せ」
その口調は、噂に聞いていた『氷の公爵』そのものだった。
ヴェルナール公国の若き当主、ゼクス・ヴァルトハイム公爵。戦場で敵を凍らせるが如く葬る、と恐れられる、若き麒麟児。
──その、はずなのに。
私を抱える腕は、なぜか、ひどく、丁寧で。
落とすまい、揺らすまい、と。まるで、宝物でも扱うかのように、慎重で。
(……どうして? どうして、見ず知らずの私に、こんな──)
問おうとした言葉は、限界を迎えた身体が、許してくれなかった。
意識が、静かに、深い闇へと、沈んでいく。
最後に見たのは──ゼクス様の蒼い瞳が、私を見下ろし、ほんのわずかに揺らいだ、その瞬間だった。
まるで、長い長い旅の果てに──探していた何かを、ようやく、見つけた人のような。
そんな、瞳。




