第1話 婚約破棄、そして手放された未来
シャンデリアの光が、磨き抜かれた大理石の床に幾重にも反射していた。
王宮の大広間──今宵は第一王子ルシアン殿下の生誕祭である。煌びやかに着飾った貴族たちが、笑いさざめきながらグラスを傾けている。
その中で私──エルサ・ヴィルヘルミナは、柱の陰に身を寄せるようにして、立っていた。
身に纏うのは、何度も仕立て直された色褪せた青いドレス。本来ならば王子の婚約者である私が、夜会で纏うべきものでは、決してない。
『身代わり聖女』。
それが、宮廷で私に与えられた呼び名だった。
二年前──本物の聖女であった異母妹ソフィアが「政治の道具にはなりたくない」と王宮から姿を消したあの日。父である侯爵は、慌てて私を王宮へ差し出した。魔力もなく、出来損ないと蔑まれていた、この私を。
「形だけでよい。本物の聖女が見つかるまでの繋ぎだ」
父はそう言って、私の背中をぐいと押した。振り返った時には、もう、馬車の扉は閉まっていた。
そして二年──私は第一王子ルシアン殿下の婚約者として、王宮の離れで、息を殺すように暮らしてきた。
魔力がないと侍女たちには陰口を叩かれ、運ばれる食事はいつも冷めたものばかり。婚約者である王子からは、まともな言葉を、一度たりともかけられたことはなかった。
それでも──「いつかは」と、心のどこかで縋っていた。
いつかは認めてもらえる、と。いつかは、ここに私の居場所ができる、と。
そんな淡い祈りだけが、私を支えていた。
「エルサ」
凛とした声が、喧騒を貫いて響いた。
顔を上げる。金髪を後ろに撫でつけたルシアン殿下が、こちらへ歩み寄ってくる。その隣には──白銀の聖衣を纏った、息を呑むほどに美しい少女。
瞬いたのは、心臓だった。
(あれは、まさか──ソフィア)
二年前に姿を消した、本物の聖女。私の、異母妹。
「皆の者、よく聞け」
殿下は私の前で立ち止まると、貴族たちを見渡し、声を張り上げた。
「本日この場をもって、私──ルシアン・ヴェルファルトは、エルサ・ヴィルヘルミナとの婚約を破棄する」
ざわり、と空気が揺れた。
頭の中が、真っ白になる。指先から、すぅ、と血の気が引いていくのが分かった。
「魔力もなく、聖女としての務めも果たせぬ偽物を、この国の未来の王妃にしておくわけにはいかぬ。──のう、エルサ」
紫の瞳が、嘲るように私を見下ろした。
「お前自身も、分かっていたのだろう? 自分が、紛い物だと」
ぐ、と喉の奥で何かが詰まった。
何か言わなければ、と思う。けれど、出てくるはずの言葉が、どこにも見つからない。
唇が震えそうになるのを、私はぎゅっと噛んで堪えた。
(泣いてはいけない。せめて、最後くらいは──)
「ソフィア嬢が戻ってきた今、もうお前に用はない。今宵限りで王宮を去り、二度と私の前に顔を見せるな」
笑い声が、さざ波のように広がっていく。扇で口元を隠した令嬢たちの、忍び笑い。哀れむような、それでいて嘲るような視線が、四方から私の身体を貫いた。
ソフィアは──私と、目を合わせようとしなかった。
「──畏まりました」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどに、静かだった。
「殿下のお幸せを、心よりお祈り申し上げます」
スカートを摘み、深々と礼をする。
膝が震えていることに、誰一人として、気づかないように。
それ以上、ここに留まる理由は、何ひとつ、なかった。
* * *
王宮の門を出た時、頬を撫でた夜風は、思いがけず、冷たかった。
侯爵家からは既に、「出戻りは許さぬ」との文が届いていた。父は、私が王宮で果たすべき役目を終えたなら、それで構わないという立場らしい。
行く当ては、ない。お金も、ない。手元にあるのは、亡き母の形見である小さな銀のロケット──ただ、それだけ。
普通ならば、絶望して、その場に頽れていてもおかしくないはずだった。
それなのに──不思議だった。
石畳をひとり歩きながら、ふと、口の端が、ほんのわずかに、緩むのを感じたのだ。
(……ああ。私、自由なんだわ)
虐げられても、嘲られても、ここに居場所を作ろうと必死だった日々。誰かに認めてもらいたくて、ただ息を殺し続けた、二年間。
もう──終わったのだ。
ふと立ち止まり、夜空を見上げる。冷たく冴えた天蓋に、星が、凍てつくように瞬いていた。
その光のひとつひとつが、まるで「行ってもいい」と、私に告げているような気がして。
「……どこへでも、行ける」
呟いた声は、白い吐息となって、夜に溶けていった。
絶望の底に沈んでいたはずなのに──その奥底で、確かに、小さな灯が、灯っていた。
それが──私のこれからを変える光だなんて。
この時の私は、まだ、知る由もなかったのだ。




