留守番
…ピピピッ…ピピピッ
気が付けば、遠くの方から何かが聞こえてきていた。
それが目覚ましのアラームだと気付いて、溶け広がっていた意識が徐々に形を取り戻すように晶は目を覚ます。
ぼんやりした頭で鳴っていたアラームを止めようと携帯端末を探しながら、心地よい布団の柔らかさにまた意識が遠のきそうになる。また夢の中へ足を踏み入れつつも、明るくなった室内にもう朝かと認識した途端、晶は文字通り飛び起きるようにベッドから身体を起こした。
「―――おはよう」
掠れたような低い声がすぐ隣から聞こえ、ハッとする。
急いで振り向くと、そこにはぼんやりとした顔で肩肘をついて晶と同じベッドで横になる香月の姿があった。
「えっ!?あれっ!?」
いつかと同じような状況に頭が追い付かない。昨夜はいつの間に眠ってしまったのだろうか。彼が眠る姿を確認するはずだったのに、どうやらまた朝まで熟睡してしまったらしい。それは良いとして、今の状況から察するに、自分は香月とまたしても同じベッドで眠ってしまったのだろうか。
混乱する晶は、彼のことを凝視したまま固まるしかなかった。
香月はそんな晶を気にも留めずに、気怠そうに髪をかき上げる。その仕草は朝から色気全開で、晶は思わずごくりと喉を鳴らしてしまった。朝一番にこの美貌はいささか強すぎて、晶は少しだけ彼から目線を外す。
「お、おは、おはようございます…。あの、昨日は―――」
「ちゃんと眠ったよ。君の目覚ましが鳴るまで熟睡できた」
「…本当ですか?」
寝ていた様子ではあるが、これは演技の可能性もある。眠った姿を見てはいないので疑心暗鬼になり、つい彼の言葉を疑うようなことを言ってしまった。
それを聞いた香月は徐に晶に向かって手を伸ばし、その頤を捕らえて上を向かせる。
「!!」
「ちゃんと僕を見て。―――本当だから」
瑠璃色の瞳に真摯に見つめられ、晶は瞬時に全身が沸騰するような感覚にくらくらと眩暈がした。朝っぱらからこの状況は一体どうしたことだろう?このまま彼を見つめ続けると自分の中の何かが臨界点に達して爆発してしまいそうだ。
晶は赤くなった顔で肯定を示すため必死に首を縦に振ると、彼はやっと安堵したようにその瞳を和らげ、晶を解放した。
「静野さんもちゃんと眠れているようだね。でも、今日からまた一人にしてしまうことになるけど、大丈夫?」
心配そうにのぞき込む香月に、晶は慌てて答える。
「私は大丈夫です!今までだって何とかしてきたんですから。それよりも、私は香月さんの方が心配です」
「僕?」
香月は不思議そうな顔で晶を見る。
「そうです。調査中だってちゃんと休んでくださいね?なんなら、この枕をお貸ししましょうか?」
晶は動揺した心を隠すため、二人の間に転がっていた枕を指して冗談めかしたように言ってみた。この枕は晶の愛用の枕で、カバーに黒猫の模様が入っている。眠れない夜を共に過ごした戦友のようなものだった。
香月は少し目を瞬かせてから、考える素振りを見せた。
「…それは良いかもしれないな。眠れないときは、この枕を君だと思って抱いて眠ればぐっすり休めそうだ」
そう言って艶めかしく笑いながら、香月はその枕を手に取ると、昨日と同じように抱えるようにぎゅっと抱きしめた。それを見た晶は再び全身を真っ赤に染めて何も言えなくなってしまう。
(……冗談だったのに、墓穴を掘ってしまった…)
そんな晶の様子に機嫌が良さそうな笑みを見せると、香月はベッドから立ち上がってカーテンを開けた。
朝日が室内を明るく照らしたのと同時に、何か部屋の中の空気までサッと変わったような気持ちになる。窓の外は既に朝から真夏の太陽が燦燦と照りつけ、晶はその眩しさに思わず目を細めた。
今日も暑くなりそうだ。そう思った晶は、ふと疑問に思ったことを訊いてみた。
「ここのお屋敷って、真夏なのに涼しいですよね…冷房が付いている様子もないし」
「そう?…ああ、確かにそうだね。でもまぁこの屋敷で過ごすなら、あまり気にしないほうが良いよ」
「…?」
意味ありげな笑みを見せて、香月は窓を開け放つ。その途端に朝の爽やかな風が部屋に入り込み、そっと晶の頬を撫でた。海の近くに建つこの屋敷は、海風の影響で夏も過ごしやすいのかもしれない。
「そう言えば、君の留守番に関することなんだけど。…変な客に困ったら、いつでもすぐに連絡してね」
「そんな変なお客様が来る可能性があるんですか?」
この屋敷に訪ねてくるということは、香月か堀越に会いに来る人物ということだろう。晶はまだここに住み始めたばかりで、事務的な連絡でしかこの場所を知らせていないから、晶を訪ねてくる人はいないはずだった。
目的の人物がいないとなれば、普通はそれで日を改めるだけではないだろうか。そう思っていると香月は難しい顔を見せる。
「…大丈夫だとは思うけどね。取り敢えず困ったらすぐに言って?」
「…わかりました」
了承の意味を込めて頷いて見せると、香月はふわりと柔らかい笑みを見せた。今のは額に飾って毎日拝みたいレベルの笑顔で、晶はその尊さに心の中でそっと手を合わせる。
神々しい笑顔の反射で顔を赤くした晶は、胸に仕舞っておきたいものがまた一つ増えたことに、ひっそりと喜びを噛みしめた。
***
香月家の屋敷の前に停められた黒塗りの高級車。その後部座席に乗り込んだ香月は窓を下ろし、見送りに出た晶に穏やかな笑みを向けた。
「どれくらいかかるかはわからないけど、なるべく早く戻るようにするから」
「私のことは大丈夫ですから、香月さんこそ無理はしないでくださいね」
晶は勤めて明るい笑顔を見せる。それに応えるように香月も頷くと、トランクルームに荷物を詰め込み終わった堀越が晶のもとにやってきた。
「それでは留守を頼みます。玄関以外の戸締りはこちらで確認しましたが、晶さんお一人ですからくれぐれも用心してくださいね。何かあればすぐに連絡を」
「わかりました。二人とも、気を付けて行ってきてください」
頷いた堀越が運転席に乗り込むと、やがて低いエンジン音を鳴らして車はゆっくりと発進した。これから二人は数時間ほどかけて問題のホテルへ向かう予定だ。
晶が手を振って笑顔で見送る中、車はエントランスを進み、ゆっくりと屋敷の門を潜って遠ざかっていった。
朝食後に出発の準備を整えた香月と堀越は、午前中に車で例のホテルへと出発した。
そのホテルは海辺の高級リゾートとして有名で、晶でもその名前を聞いたことがあるほど名の知れたホテルだった。
有名なのは高級仕様であることだけではなく、そのご利益も有名で、何でもそのホテルに恋人同士で泊まると、その後、結婚する率が高くなるといわれているらしい。だからこのホテルは婚前旅行などでよく利用されていて、非常に人気なのだそうだ。
晶は以前、何かのテレビ番組の特集でこのホテルが取り上げられていたのを見た記憶があった。そこに映されていたホテルの様子は、まさにリゾートといった雰囲気で、白い砂浜のプライベートビーチや屋外プール、更には豪華な客室に部屋付きの露天風呂など、これでもかというような内容の高級ホテルだった。
それを観たときの晶は、自分もいつかは泊まってみたいなと軽く思っただけだったが、そんな高級ホテルを傘下に持つ大企業の家のご令嬢と知り合いになってしまうなんて、本当に人生何が起こるかわからないと晶はつくづく思う。
「…さてと。片付けと洗濯やっちゃおうかな」
二人を見送った後、ひとり呟いた晶は今日やらなければいけないことを頭に思い描きながら屋敷の玄関に引き返す。
ある程度のことは堀越が済ませてくれていたが、出発の準備もあるだろうと思い、できることは晶が請け負うことにしたのだ。堀越は申し訳なさそうにしながらも、晶に朝食の後片付けと、リネンの洗濯、庭の花壇の水遣りを任せてくれた。
その程度の仕事ならすぐ終わってしまうだろう。晶は今日の予定を頭の中で組みながら玄関のドアを開けた。
何気なく玄関に足を踏み入れた途端、そのしんとした静寂にゾクリとした何かが背中を這い上がる。
主人と執事がいなくなった屋敷の、その巨大な空間に一人きりでいることに、得も言われぬ恐怖心のようなものが込み上げてきた。
実は、晶はこの大きすぎる屋敷の全容をまだ知らない。堀越に聞いたところ、使っていない部屋が多すぎて手が回らないので、必要な所だけ手を入れて、他は鍵をかけたまま掃除にも入っていないということだった。なので、晶がまだ入ったことのない場所はたくさんあった。
「この機会に、このお屋敷を探索するのもアリかと思ったけど…」
今回、晶は留守番役なのでこの屋敷のマスターキーを預かっていた。
地下だけは香月の仕事部屋なので立ち入ることを禁じられていたが、他の部屋は特に何も言われなかった。むしろ晶が勤めるようになったので、堀越は他の部屋の掃除にも手が回りそうだと喜んでいたくらいだ。
晶はホールから長く続く廊下に目を向ける。まだ立ち入ったことのないそこは、真夏の真昼間だというのに薄暗く、ひんやりとした空気が流れているように見えた。
その廊下の奥で、何かが過ったような気がして晶はぶるりと身体を震わせる。とてもではないが、屋敷に一人きりのこの状況で探索などできそうにない。
晶は頭を振って恐怖心を紛らわすと、脇目も振らずに厨房へと向かっていった。