杞憂
「―――というわけで、明日から糸の依頼で、問題のホテルに調査に行くことになった」
夕食の席で、香月は昼間に糸から依頼された件を晶と堀越に話し始めた。
あの話の後、恐縮しながらもお茶を一杯ごちそうになった晶は、折を見てすぐに退席した。晶のいなくなった後、香月は糸としばらく二人きりで過ごしていたので、てっきり逢瀬を楽しんでいるとばかり思っていたが、どうやら香月は糸からの依頼について、その詳しい話をずっと聞いていたらしい。
『また近いうちに伺いますわ』
そう言って、帰る間際に晶に笑いかけた糸は、花の香りを残して去っていった。今思い返しても夢幻だったのではないかと錯覚するほど、彼女はその所作の一つ一つまでが芸術品のように美しかった。
思い返してぼーっとしていると、香月が怪訝な顔で見ていることに気付き、晶は慌てて居住まいを正す。
「そっ、それで、私は何をすればいいでしょうか?」
確か晶のバイトの契約には、香月の幽霊退治の手伝いも仕事内容に入っていたはずだ。晶は先日、災難にも悪霊に取り憑かれ、その後遺症で幽霊が見えるようになってしまった。幸い香月のお陰で無事に解決したのだが、いまだに幽霊の姿は見える。
不思議なもので、見えると言っても今の所まったく不便は無かった。というのも、この屋敷でお世話になり始めてから、あまり屋敷の外に出ないせいか、時々屋敷内に出てくるキヌさんの他には、何となくその気配を感じるという程度で、はっきりと害のある幽霊に相見えていないのだ。
それに、そんな霊が見えたからといって何かできる訳では無いのだが、自分でも何か香月の役に立つかもしれないと思い聞いてみると、香月は真剣な目を向けて晶に言った。
「今回、静野さんにやってもらいたいことは、留守番だよ」
「る、留守番…?」
思いもしなかった単語を出され、晶は虚を突かれたように目を丸くする。
「そう。今回はまだどういった怪現象なのかはっきりしないところが多いし、何日かかるかもわからない。だから、静野さんにはこの家で留守番を頼みたいんだ」
確かに、具体的な対策も立てないうちから役に立つかもわからない人間を連れて行っても邪魔なだけだ。また役に立てなかったと少し落胆しかけたが、怖い思いをしなくて済んだし、自分にできることを頑張ろうと気を取り直す。
「留守番ですね、わかりました。でも、留守番って、実際には何をすればいいんでしょう?」
「まぁ、特にこれということはないんだけど…強いて言うなら、『招かれざる客』の撃退かな?」
「あ~…」
この屋敷に勤めるにあたって、堀越から出された条件のことを晶は思い出す。条件は三つで、この家のことや香月のことを探らないことと、香月の地下の仕事部屋には入らないこと。それとこの家は極力人を寄せ付けたくないようで、訪ねてきた客は何も言わずに追い返すことが決まりになっていた。普段なら堀越がその役目を担っていたが、果たして晶に務まるだろうか。
「まぁ、普通なら主人が留守だと言えば引き下がると思うけど…。一応こちらもできるだけ対策はしておくから」
「?…わかりました。何とかやってみます!」
それが自分の使命というのなら、お世話になっている分頑張ろうと晶は力強く頷いた。
***
「はぁ~…」
今日の仕事も無事終わり、寝る支度を整えた晶は、昨日と同じように香月と眠る部屋の手前までやってきた。
目と鼻の先にその部屋は見えているが、ここから一歩がなかなか進まない。その理由について、先程から晶の頭の中はずっとグルグルしていた。
(…このまま香月さんと同じ部屋で眠っていいのかな?)
今日初めて知った香月の婚約者の存在に、晶の胸は罪悪感でいっぱいになっていた。いくら雇用上の契約といっても、彼女からしたら自分の婚約者が他の異性と同じ部屋で眠るなんて許せないだろう。そこに少しも疚しい理由がなくても、年頃の男女が同じ部屋で二人っきりで眠る状況なんて色々疑われても仕方がない。
これが建前上の婚約者ならばまだいいとしても、昼間見た二人の様子はとても仲睦まじく、愁いを帯びた表情でお互いの手と手を重ねていた光景は、まるで恋愛映画のワンシーンのように美しかった。
(そんな憧れの推しカプの二人の間に、邪魔ものとして入るなんて切腹ものだわ…)
そう考えた晶は今夜、香月に契約の変更を相談するつもりでここに来た。しかし、昼間の堀越の様子と、彼に「仕事」とはっきり言われたことが頭を過る。
それに、香月が本当に自分と一緒なら眠れるのか。それすらもはっきりしない。
晶は今日の夜に寝たふりをしたまま香月が眠ったかどうか確認するつもりだった。自分さえ眠らなければ一緒に眠ったことにはならないし、糸にも何とか面目は立つ。それに、もし香月が自分のためにこの条件を飲んだとしたなら、彼だけ不利益を被るのはどうしても許容できなかった。
(こんな状態なら今日は眠れそうにないし、決めるのは確かめてみてからだよね)
改めてそう思った晶は、大きく吸った息を吐き出して気持ちを整えると、香月のいる部屋へと足を踏み出した。
「おや、まだお休みになっていませんでしたか」
「わぁっ!!」
突然背後から声をかけられて、晶は文字通り飛び上がった。振り向くと、堀越がティーセットを盆にのせて立っている。
昼間のきっちりした姿とは違い、普段着で髪を下した姿の堀越が新鮮で、晶は思わず彼をぽかんと見上げた。
「堀越さん…驚きました…。香月さんにお茶ですか?」
「ええ、今夜は根を詰めるだろうと思いまして」
「…そうなんですか?」
「明日から調査ですからね。急なことでしたから色々と調整などでお忙しいでしょうし」
「なるほど…」
それでは今日も香月が眠ることはないということだろうか。目論見が外れたことは残念だが、それはそれで香月のことが心配になる。
更にどうすれば良いのか分からなくなった晶は、思い切って堀越に訊いてみることにした。
「…堀越さん。昼間言っていた私の仕事ですが…、こういう時も勤しむべきでしょうか?」
その質問に堀越は若干目を見開いた後、すぐに穏やかな笑みを見せた。
「…はい。ぜひ勤しんでください。完璧主義は主人の美徳ですが、身体を壊してまですることではありません。それに、淑女の願いを聞き入れる度量のない者は、私の主としては失格ですから」
その口ぶりに晶は目を瞬かせる。ただただ主人に忠実だと思っていた堀越がそんな強い言葉を口にするとは思わなかった。
驚いて何も言えない晶に笑いかけて、堀越は踵を返す。
「眠気覚ましにと淹れたお茶でしたが、安眠効果のあるものに変えてきますね」
そう言って、堀越は何だか楽しそうな足取りで薄暗い廊下に消えていった。
「そのお茶…私が飲みたかった…」
ぽつりと呟いた晶だったが、時既に遅し。諦めて目線の先にある部屋のドアを見つめる。
(勤しむって、実際どうすればいいんだろう…)
香月を心配する気持ちと糸への罪悪感の狭間で揺れ動き、どうすればいいのかわからない。ドアの前に立っても答えが分からず悶々としていると、突然そのドアが開いた。
「…静野さん、いたんだ。どうしたの?」
さらりとした光沢のあるシルクのシャツを少しはだけさせて、首元に金のチェーンを覗かせた香月が、晶の姿を認めると覗き込むように見下ろしてきた。
「わっ、す、すみません。遅くなりました」
謝りながらも、その距離の近さに慌てて晶は一歩下がろうとする。その前に香月に手を取られ、あれよという間に部屋の中へと誘われてしまった。
「遅いから、君の部屋まで迎えに行こうと思ってたんだ」
「そんな!忙しいのに気を遣わせてしまってすいません…」
恐縮する晶に、香月は手を離しながら軽く首を振る。
「いや。こちらが勝手にしたくてやっていることだから。君こそ僕に気を遣わなくていいんだよ」
そう言ってベッドに腰かける香月の様子に、若干疲れの色が見えたような気がして、晶は首を傾けた。
「香月さん、今日はもうお休みになりますか?」
「? いや、まだやることが残っているから…」
「そうですか…」
そう言って沈んだ表情を見せる晶に、香月は不思議そうな顔をした。
「どうしたの?」
「いえ…今日も香月さんは、眠らないのかと思いまして…」
「…昨日はちゃんと眠ったよ?」
穏やかな顔でそう答える香月を見て、胸がぎゅっと掴まれたような感覚がした。
彼は自分のために良かれと思ってはぐらかしてくれているのかもしれない。それが彼の優しさだと充分に分かっていても、胸の奥の方がシクシクと痛み出す。
何だかやり切れなくて、晶はついストレートに聞いてしまった。
「…香月さん、実は私のためにこの条件を吞んでくれたんじゃないですか?本当は私がいても眠れないんじゃ…。だとすると、香月さんには糸さんという婚約者がいるのに、申し訳ない気持ちで一杯で…。これじゃあ私だけが得するだけで、香月さんの邪魔になってるんじゃ―――」
「それはないよ」
晶の言葉を遮って、はっきり否定した香月に晶は益々不安になる。
「香月さん優しいから…。こんな私にまで気を遣わなくても大丈夫ですよ」
そう言って晶は胸に感じる痛みを隠し、何でもないことのように笑顔を見せる。香月はその顔を見て、途端に眉を寄せた。
「じゃあ、証明してあげる―――」
そう言って立ち上がると、香月は晶に近づき再びその手を取る。何事かと思う間もなく、晶は香月に引っ張られる様にベッドへと上がった。
「ひゃっ!?」
驚いて身体のバランスを取ろうと手を付いたところで、今度はその手を取られ、晶は見事にベッドに倒れ込んでしまった。
「なっ、なんで…」
彼の行動の意味が解らず目を白黒させていると、同じベッドに香月が横になる。そして、晶が抱えてきた自前の枕を奪うと、それをぎゅっと胸に抱いた。
「―――これで、よく眠れそう」
そう言って妖艶に笑う香月の姿に、晶は自分の心臓が一瞬止まったような気がした。
まるで石化したように動けないまま、宝石のような彼の瑠璃色の瞳を間近に覗く。彼の鼓動と、あの酔いそうな夜の香りを感じて、晶はくらりと眩暈のようなものを覚えた。
一瞬、あの時の綺麗な夕焼けに戻ったような気がして、晶は微かに胸を震わせる。
「糸のことは、気にしないで。彼女にはすべて話してあるし、むしろ僕が眠れたこと喜んでいたよ」
そう囁くように言って、彼は煌めく瑠璃色の瞳で晶のことを見つめる。
晶は何か抗えない力で、その瑠璃色の宝石をじっと見つめ続けるしかできない。目を逸らさなければと思うのに、言うことを聞かない自分の身体は一体どうなってしまったのだろうか。
(まただ…この感覚…)
遠くない過去に味わったこの恍惚ともいえる極上の感覚に、身体の奥の方がゾクリと震える。
キラキラと瞬く彼の瞳と、夜の香り。それらに晶のすべてが囚われる。
やがて、彼の瞳の中に極彩色の楽園を見出すころ、晶の意識はいつかのように深く深く闇の中へと落ちて行った。




