客人の来訪
「ふぅ~、こんなものかな」
磨き上げた鍋を見ながら、晶は満足したように独り言ちた。朝食で使った食器を洗って拭き終わった後、次に使われた調理器具をきれいに洗った晶は、それらすべてを所定の場所に仕舞っていく。
最新鋭の設備が整っているこの厨房は、壁際に業務用の冷蔵庫やオーブン、三つ口のコンロや大きめのシンクが配置され、中央には大きめの作業台が置かれている。一般家庭のキッチンより大分広いが、その分使い勝手が良さそうで、必要なものが分かりやすく整理整頓されていた。なので片付けもしやすく、晶は堀越が帰ってきた後も問題なく食事を作ることができるように厨房を綺麗にしておくことにした。
「次は洗濯だな。確かまとめて置いてあるって…」
その時、「チリリン」というベルの音が聞こえた。これは確か玄関のベルの音だと気付いた瞬間、晶は身体を硬直させる。
(お、お客さん!?)
ほとんど来客はないと聞いていたのに、さっそく来てしまったようだ。晶は内心狼狽えるものの、自分の役割を思い出し、意を決して厨房を出て玄関に向かった。
向かっている間にも何度か呼び鈴が鳴り、晶は小走りで玄関に到着する。
この屋敷にはテレビ電話付きのインターホンなどないので、来客の姿はドアを開けなければ確認できない。晶は軽く深呼吸すると、玄関ドアの外にいる人物に問い質した。
「…はい、どちらさまでしょうか?」
「……女?あなた、誰?」
声は若い女性のように聞こえるが、どうやら名乗るつもりはないらしい。
さてどうしたものかと晶は考える。相手がどんな立場の人物か分からない以上、失礼なことはできないし、もしかしたら香月の家族の可能性もある。そう思った晶は仕方なく質問に答えることにした。
「私はこの屋敷の使用人ですが、この家に何の御用でしょうか?」
「…私はこの家の主人に会いに来たの。『さくら』が来たといえば分かるわ」
やはり近しい人物のようだ。だとしたらこのまま玄関を開けずに対応するのは失礼だろう。晶は玄関の鍵を開けてドアをそっと押し開けた。
するとそこには、晶と同じくらいの若い女の子が立っていた。
少し見開かれた大きな瞳とつやつやの唇。艶やかで柔らかそうな茶髪をゆるく巻いておろしたその女の子はいかにも美少女という言葉がピッタリで、テレビに出ている芸能人のような華やかさがあった。着ているものもノースリーブの淡いピンクのブラウスに黒のミニスカートといった十代の流行りの恰好で、彼女の甘い雰囲気によく合っている。
現れた晶に驚いた顔をした彼女は、すぐに上から下まで注意深く晶のことを観察するように視線を動かした。その様子に、甘いだけではない抜け目なさを感じ取って、晶は密かに警戒心を強くする。
晶は『さくら』と名乗る女の子の前に出ると、軽く腰を折ってお辞儀する。
「さくら様、ですか。申し訳ありません。あいにく主人は留守にしておりまして…」
「そう。それなら、ここで待たせてもらってもいいかしら?」
そのどことなく横柄な口調から、彼女も良い所のお嬢様なのだろうと想像がついた。晶は香月の関係者である可能性の高い『さくら』に俄然興味が湧いたが、言いつけに従い、何も聞かずに丁重にお引き取り願うために再び頭を下げる。
「すみません…主人は数日留守にする予定でして、いつ帰ってくるかわかりません」
「そうなの?なら仕方ないわね。…ところであなた、私と同じくらいに見えるけど、ここで働いているの?」
「はい」
「あなた、名前は?」
晶はつい答えそうになり、ぐっと詰まる。これ以上は契約のルールを破ってしまうことになるだろうか。相手はこの家のことではなく晶のことを聞いてきただけだが、「この家の使用人の名前」ということであれば、ルール上知らせるべきではないのだろう。
晶は深く頭を下げたまま、出来るだけ無感情な声で答えた。
「名乗るほどのものではありません。では、失礼いたします」
そう言うなり晶は素早く玄関の中に戻るとすぐにドアを閉めて鍵を掛けた。
「ちょ、ちょっと!!」
相手は晶の行動に戸惑ったような声を上げ、何度もドアを叩いて晶に開けるよう訴える。しかし、晶がじっと沈黙を守っていると、やがて諦めた様な溜息が聞こえた後、足音が遠ざかっていった。
そのうち車のエンジン音が鳴り響き、それも遠ざかっていく。
「はぁ~…これでいいのかな」
客人がいなくなったことを確認した晶は一気に緊張が解け、その場にしゃがみ込んでしまった。
こんな調子でこれからやっていけばいいのだろうか。客人に対して失礼な気はしないでもないが、ここに来る客人は不要な人物が多いと言っていたし、追い返せと言われているのだからこれでいいのだろうと晶は自分を納得させる。
気を取り直すと、晶は仕事の続きをするために立ち上がった。
***
「これでよしっと」
頼まれた仕事と自分の部屋の掃除と、ついでにダイニングと寝室の掃除も終えた晶は、普段着に着替えると出掛ける準備をして玄関に鍵を掛けた。
火の元や窓の鍵も確認したので大丈夫だろう。留守番を任されたとはいえ、戸締りに注意さえすれば出掛けることもかまわないと言われていたので、この際用事を済ませてしまおうと晶は出掛けることにした。
日向に一歩踏み出せば、照りつける真夏の太陽が眩しくて、晶は思わず目を瞬かせる。
頬を撫でる風は海の香りが混じり、庭をぐるりと囲う雑木林がその青々と茂る葉をざわめかせる音だけが聞こえる。晶は改めて、ここが下界の喧噪とは隔たれた場所なのだと実感した。
「わ~爽やかな風…今日は過ごしやすい日になりそう」
そのまま季節の花や木々に囲まれたアプローチを進み、立派な鉄柵の門の前に来た晶はそれを開けて外に出る。
すると、途端に全身が茹だるような暑さに見舞われた。
「え?…暑い…?」
ジメジメとして熱い空気が纏わりつき、一瞬で全身が汗まみれになる。すると、頭上で蝉の鳴き声が煩く鳴り響き、海沿いの国道を走るトラックの音や船の汽笛、鴎の鳴き声も遠くから聞こえ始めた。
「?」
不思議に思い、もう一度門の閂を外して屋敷の敷地内に入ってみる。すると、先程までのざわめきが耳を塞がれたようにピタリと止み、代わりに木々の騒めきだけが聞こえてきた。更に、心地よい風が汗ばんだ肌を冷やしてくれる。
「???」
晶はまた門の外に出た。すると途端にざわめきが戻り、茹だる様な暑さが纏わり付く。
(…え~っと…もしかして、これが香月さんの言っていた「気にしないほうが良い」ってやつ?)
あの主人にしてこの屋敷ありということか。こういった不思議なことがまだまだこの屋敷には潜んでいるのかもしれない。今夜からは一人きりでこの屋敷で過ごすことになるが、果たして自分は無事に過ごすことができるだろうか。
晶はじっと屋敷の方を見つめる。改めて見ると無人の屋敷は何だか不気味な廃墟のように見えて、途端に胸がドクドクと音を立て始めた。
このままずっと見ていると、誰もいないはずの窓辺に人の影が見えるような気がして、晶は慌てて視線を外すと、坂を下る石段を急いで下り始めた。
この屋敷は海沿いの丘の上に建てられている。このあたり一帯に広がる雑木林がこの屋敷の敷地になっているため、この林を抜けないと下界へ降り立つことはできない。車で曲がりくねった道を下りていくのは簡単だが、徒歩で永遠に下りて行くのはそれなりに時間がかかる。そのためか、門のすぐ脇に石段が作られていて、ほとんど直線で下界の道まで下りられるようになっていた。それなりに急な石段だが、車道を歩くよりも断然早い。
「わー何だか景色が山奥にいるみたい…それに結構急だな。これは帰りがキツそう…」
晶がこの石段を通るのは今日が初めてだった。鬱蒼と茂る木々の中を、ハイキング気分で軽快に下りて行くと、途中で石段の脇に何か祠のようなものを見つけた。
石でできた小さな家のような形のそれは、苔に覆われ、随分と古そうに見える。晶は立ち止まり、その祠をよく観察し始めた。
「一体何の神様だろう?」
この家の敷地内にあるということは、この家に関するものか、この地域に所縁のある神なのかもしれない。そう思った晶は、背負っていたリュックを下ろすと中を探った。そして目当てのものを掴み出すと、祠の前にそれを供えて両手を合わせる。
「この間から、このお屋敷に住まわせてもらってます。どうぞよろしくお願いします」
柏手を二回打ち一礼すると、晶は再びリュックを背負って石段を下り始める。ほんの気休めの気持ちだったが、この不思議な屋敷に住むからにはこういったことも大事にしたほうが良いだろう。これからここを通る時はお祈りしていこうと心に留めた。
暫く石段を下り続けると、やっと下界の道が見えてきた。晶はさらにバス停まで十分ほど歩き、そこからバスに乗り込んだ。
バスに揺られている間、晶は流れる景色を楽しみながら、このあたりの地図を頭にメモしていく。これからいつまでこの場所に住むのかわからないが、近くのスーパーやクリニックなどは頭に入れておいて損はないだろう。
バスはやがて海沿いの道を走りだした。キラキラと太陽を反射する波が眩しく、海辺には海水浴やサーフィンを楽しむ人々の様子が見える。それを眺めながら、そういえば香月たちが向かった先は海辺のリゾートだったことを思い出す。
(ここよりもきっと、沢山の観光客で賑わっているのかな)
晶は浜辺で他の観光客と混じってリゾートを楽しむ香月の姿を頭に描こうとする。しかし、香月と真夏の太陽というのが何だかミスマッチ過ぎて、晶は一人バスの中で笑いを堪えるのに必死になってしまった。




