届かなかった願い
気が付くと、晶は何処か知らない公園のブランコに座っていた。
目の前では幼い少女が、父親と母親と一緒にボール投げをしている。
まだ幼い少女は、父親にボールを投げるものの、その距離の半分も届かずにボールが転がった。父親は「〇〇〇は上手だなぁ」と笑いながらそのボールを拾って優しく投げ返す。
それを見ている母親も目を細めて、「今度はこっちだよ〇〇〇ちゃん」と少女に笑いかけていた。
何処にでもあるような、ありふれた光景。
しかし何故か、その光景に胸を締め付けられ、晶は堪らずその家族から目を逸らした。
すると、隣のブランコに見知らぬ男の子が座っているのに気付く。
彼は晶の方を見ていたようだが、晶と目が合いそうになった途端に、すぐに顔を逸らしてしまった。
晶はその男の子が気になって、思い切って話しかける。
「私が、どうかした?」
「…いや、えっと……」
男の子は、晶に話しかけられたことで焦った様子を見せたが、やがて彼は気まずそうに、顔を少しだけ晶に向けて言った。
「…何だか、泣きそうだったから、大丈夫かなって」
「…そっか。見られてたね。…もう大丈夫だよ」
晶は笑顔を見せながらそう答える。すると、男の子は驚いた顔をして正面から晶の顔を見つめた。
「…本当に?…無理してるんだろ?」
見知らぬ男の子に隠した心を見透かされたような気がして、晶は思わず口を閉じる。
そして考える。父親を亡くして、辛い思いに蓋をして前を向こうとしている自分は、無理をしているのだろうか。
「…そうに見える?」
「わかんない。…だって、それを見せないように無理してるんだろ?」
男の子はそう言うと、眉間にしわを寄せて晶を見つめる。
「どうして、辛いのに『助けて』って言わなかったの?」
その問いに、晶は息が詰まりそうになった。
助けを求めていい相手が、一体何処にいるというのだろう。今まで晶が辛いとき、助けてくれた父親はもういない。
晶は独りぼっちなのだ。
これから先も。ずっと。
「…だって、これは私の問題だし、言われた方は迷惑でしょ?」
「…そんなこと、ないよ」
男の子はそう言った後、複雑な表情を見せてまた俯いてしまった。
その表情をした誰かを、最近何処かで見たような気がして晶は首を傾げる。思い出そうとしても、頭に靄がかかったようにボンヤリとしていて思考が上手く纏まらない。
とにかく、目の前の男の子を元気付けたくて、晶は明るい声を出した。
「私のことは大丈夫だから、あなたが気に病むことないよ」
「…そうやって、全部自分で飲み込んで、結局あっち側に行っちゃったんだろ…」
「え?…」
男の子はその顔を歪ませて、今にも泣き出しそうな、でもものすごく怒っているような、痛みを堪えているような表情で晶のことを見つめている。
「ねえ…どうしたら、君を助けてあげられたの?」
男の子の瞳が揺れる。彼は晶に話しかけているはずなのに、何処か遠くにいる別の相手に向かって話しているかように、その視線を彷徨わせていた。
「僕だけが知っていたのに……僕は、どうすれば良かったの?」
彼の瞳から零れ落ちた涙を見て、ようやく晶は、彼が晶ではない別の誰かと晶を重ねてその悔恨を吐き出しているのだと気付いた。
彼が話しかけている相手は、もうこの世にはいないのかもしれない。永遠に答えの貰えない問いを、彼はずっと考え続けているのだろうか。
あいにく晶もその答えを知らない。晶が一人ぼっちで辛い時、周りの人にどうやって助けてもらいたかったなんて、考えたこともなかった。
助けてと叫んだら、誰か助けてくれたのだろうか?
独りぼっちで過ごした眠れない夜のことを思い出した途端、晶のすぐ傍でまた、暗闇がポッカリと口を開いたような気がして、急に心がシンと冷える。
眠れない夜に数えた羊の目から覗き見える虚無が、晶の孤独を捕えようとしてくる。
その時ふと、夜の香りが鼻を掠めた。
どこかで嗅いだことのあるその香りは、何の香りだっただろう?それはひどく心が落ち着く香りだった。
晶は凪いだ心で、改めて父親が亡くなった後のことを思い出す。悲しみに押し潰されそうだった時、自分はどうだっただろう?誰かに助けを求めようと思っただろうか?
思い返せば、晶は自分から手を伸ばして他人に助けを求めることはしなかった。
でも、手を差し伸べてくれた人がいたことは事実で。
その時々で彼らの手を取ったことで晶は今、前を向いて生きていけている。
彼らの手を取らなければ、もしかしたら晶は父親の後を追っていたかもしれない。父親を亡くした喪失感は、彼らの手を取った今の自分ですらいまだに拭いきれずに、ふとした瞬間、その口をポッカリと開けるのだから。
男の子の目に映っている別の人物は、誰の手も取らず、抱えきれない闇に捕らわれたまま行ってしまったのだろうか。
他人に期待をせず、すべてを諦めてしまえば楽なのかもしれない。だけど、人は自分が思うよりもずっと弱い生き物だから。
救いを求めて誰かの手を取るのも、すべてを諦めて自分の世界で生きるのも、その人が決めること。他人がそれをどうこう出来るものじゃない。彼の瞳に映る人物は、それを自分で選んだだけ。
でも、近くで手を差し伸べてくれていた人にとって、届かなかったその思いは、一生消えることのない傷になる。それは何よりも目の前にいる彼の顔が物語っている。
その人物がそれを分かっていたのかはもう永遠に分からないが、きっと彼は、その傷の痛みよりも、自分が相手にとってあちら側へ行くことを思い留まらせる存在になれなかったことが何より悔しいのだろう。
「…相手に届かないって、悔しいよね」
晶は前を向いて少しだけブランコを漕ぐ。相変わらずあの親子は遊んでいるが、もう目を逸らすほどの胸の痛みはなかった。
「でも、それを選んだのは、私なんだよ」
「え…」
男の子は、涙を流したままの顔を茫然とさせて晶を見る。
「選んだ…?」
「そう。君の手を取らなかったのは、私の意思」
晶はあえて彼のためにその相手に成りきる。彼を、救うために。
「だから、君が背負わなくていいんだよ」
「なんでっ…」
そう言って、彼は両手で顔を塞ぎ、声を震わせた。
「僕は…っ!君を、救えたかもしれないのにっ!……何も、してあげられなくて…でも僕は、…どうしようもない、馬鹿で…どうすれば良かったのか、ずっとわからなくて…っ…だから僕は、自分のせいだと…」
手の指の隙間から溢れ出た雫が、ぽたりと地面の砂を濡らす。
押し出すようなその言葉は、彼の心からの叫びに聞こえた。
「…君を、救いたかったのにっ!!…君にっ!い、生きていて、ほしかっ…た…!!」
今はもう会えない人に向けて叫ぶ彼の慟哭を、晶は胸を締め付けられる思いで聞いていた。
その声はその人物に届いているだろうか。どうか届いてほしいと晶は願う。これは、届かなかった彼の想いの葬送だから。
しばらくその慟哭を聞いていた晶は、いつの間にか彼の身体が大きくなり、成人男性ほどの背格好になっていることに気が付く。
驚いた晶は、そっとその顔を窺う。
するとそれは、遠くない過去に見覚えのある顔だった。




