叶えられた願い
その顔を思い出した瞬間、バン!!と大きな音が聞こえて、晶はハッと目を覚ます。
目を覚ましたはずなのに、辺りは真っ暗で何も見えない。夢と現実の区別がつかず、晶の頭は混乱した。
(今まで見ていたのは…夢…?)
最後に見た顔を思い出し、これは一体どういうことかと考えを巡らせる。しかしすぐに、寝ているベッドの脇で人の気配を感じて、晶は咄嗟に身を起こした。
その人物は、蹲るように身体を丸めて震えているように見える。
(もしかして、今の夢は―――)
その時、別の方向から声がした。
「そんなに静野さんが恋しいの?」
聞いているすべてのものを凍らせる様な冷えた声色は、香月のものだ。驚いて晶が振り向くと、闇の中で煌々と輝く青い炎のような双眸が、冷たく晶の近くで蹲る人物を見下ろしている。
香月の言葉が誰に対してのものか瞬時に理解した晶は、慌ててベッドから降りると香月の元へ急ぎ、両手を広げて彼の前に立ちふさがった。
「……静野さん?」
「香月さん!ちょっと待ってください!」
そう言うと、晶は振り返って蹲る人物にそっと近づいた。
「静野さん!」
香月の制止の声にも構わず、晶はその顔を覗き込む。暗くてよくは見えないが、俯き放心したようなその顔はやはり先ほどの夢に出てきた男性で、あの男の子の雰囲気が少しだけ残っていた。
晶は改めて、彼に向けて最後の言葉を贈る。
「……助けようとしてくれて、ありがとう。…生きていてほしかったって言ってくれて、嬉しかったよ」
その言葉に呆然と目を見開いた男は、徐に晶の顔を見つめ、そのこけた頬に涙を一滴垂らした。
彼はそのままゆっくりと目を閉じると、やがてスッと意識を失ったように身体が崩れ落ちる。
その途端、勢いよく窓が開き、部屋の中に溜まっていた重苦しい空気が一斉に外へと流れ出るように、強い風が巻き起こった。
「…っ!!?」
部屋の中で旋風が起こったように吹き荒れる風の勢いに圧倒され、晶はよろけて転びそうになる。すると、どこからともなくタマの声が聞こえてきた。
「おぬしのおかげで、こやつに憑いていた悪意はほとんど浄化されたようじゃ。あとはわしが引き受けよう」
「タマ様!?」
風はますます勢いを増し、旋風が倒れていた男性を巻き込み始めた。男性を巻き込む風は勢いを増したまま、彼を窓の外へと連れ出した。
晶が慌てて窓辺に近づくと、男性は風に巻き込まれたまま宙に浮き、そのまま夜の闇へと連れ去られてしまった。
突然のことに呆気にとられていた晶は、窓から勢いよく入ってきた突風に煽られてバランスを崩し、後ろに倒れそうになる。
その寸前で後ろから誰かに抱き留められた。途端にあの夜の香りに包まれ、鼓動が大きく跳ね上がる。
「…あ、ありがとう、ございます…」
振り向かずとも、その香りで香月だと分かった。晶は恥ずかしくて、前を向いたまま彼にお礼を言う。
しかしそれに答えない香月は、晶を抱きとめたままその手を放そうとしない。
風が収まり、再び部屋の中が静まり返っても、香月は手を離さなかった。どうすればいいのか分からず身を固くしていると、徐々に香月に触れられている部分が熱を持ち始め、すべての神経がそこに集中していくのが自分でも分かった。
「……自分を襲った相手に不用意に近づくなんて、何してるの?」
しかしそのブリザードのような温度の声を聞いた途端、晶はブワリと全身に冷や汗を浮かべて凍り固まる。
今まで向けられたことのないその絶対零度の声色に、晶の心臓は縮みあがった。それと同時に、今度こそ彼に嫌われたと思い、心が抉られるような気持になる。
確かに、人から見れば晶がやったことは支離滅裂で、晶のことを助けて守ろうとしてくれた香月に対して、それを裏切る様な、かなり失礼な言動をとった自覚はある。
今振り向いたら、彼は軽蔑の目を晶に向けているのかもしれない。謝っても許してもらえるかはわからない。それでも、晶は自分の行動についてちゃんと説明しようと彼の方に振り向こうとした。
「あの!香月さ……ん!?」
「見ないで」
突然目を塞がれ、晶の視界は文字通り真っ暗になる。
彼の冷たい掌で視界を覆われて、ただでさえ暗くて良く見えなかった視界が完全に閉ざされた。その行為の意味が分からなくて、晶は戸惑いながらそのまま動きを止める。
もしかしてこれは、晶に幻滅して顔も見たくないということだろうか。
「香月さん…?」
そこまで嫌われたかもしれないことに胸がシクシクと痛み出し、不安に駆られて思わず彼の名を呼ぶと、再び冷たい声が振ってきた。
「…これは、危ないことをした君へのお仕置きだよ」
「えっ?」
何だか恐ろしいことを言い出した香月に驚いて固まっていると、何かが頬に触れる感触がした。
それは香月の指のようで、その指が優しく頬を撫でた後、晶の頤を捕らえる。
目を塞がれたまま、軽く上を向かされた晶は、次に彼の親指らしきものがそっと唇に触れてきたことに思わずビクリと肩を揺らした。
「このまま、口を開けるんだ」
「…!?」
驚くべきことを言われ、ますます戸惑った晶は、それでも言われた通り少し口を開ける。
すると、下唇に触れていた彼の親指がそっと口内に侵入してきた。
(!!!…な、何を!?)
訳の分からないまま、香月にされるがままになっている晶は、口の中にある香月の指がグッと奥まで侵入してきたことでますます混乱する。
やがて、彼の親指で歯列を割り開くように口を開かされると、驚くべきことにその奥にある舌先を捕らえるように摘まれた。
「!!」
その痺れるような感触に、ゾクリと全身が粟立ち、生理的な涙が出てくる。
晶の頭は大混乱に陥った。
(なにこれ!?ゾクゾクする…?それよりも、すごく、恥ずかしい!!)
憧れの推しである香月の指が自分の口の中に入っていると思うと、晶は羞恥心で焼け死ぬ思いがした。これがお仕置きなら効果絶大だが、香月が汚い思いをする羽目になるのだから意味がない様な気がして、晶の頭の中は疑問でいっぱいになる。
頭の中を羞恥心と疑問符で溢れさせていると、やっと香月の指が引っ込んだ。
良く分からないお仕置きが終わったことにホッとするのも束の間、すぐにまた何かが口の中に入ってきた。
「!?……っっっ!!!!???」
その衝撃の味に、思わず目を覆っていた手を剝がして彼の方に振り向く。
「なにこれ!!?…ま、不味い!!?」
「出しちゃだめだよ?一応ちゃんとした食べ物だからね」
ものすごい複雑な味が口の中に広がり、晶は口の中にある得体の知れないモノに悶絶する。いつの間にか部屋の明かりが点いていて、明るいライトに照らされた香月は悶え苦しむ晶の様子にニヤリとニヒルな笑みを見せている。
そして堪らないといった風に「くくくっ」と笑い出した彼は、先ほどのブリザードのような雰囲気が消えて、いつもの香月と変わらない態度に戻っていた。
晶はそれに安堵するよりも、口に広がる苦みと甘みと薬のような味にそれどころではなく、今度は本気の涙を流す。
「こ、これ、何なんですかっっ!?」
「これはサルミアッキという飴だよ。主に北欧で愛されている伝統の味さ」
「うう…っっ!!ま、不味い…!!」
その匂いも独特すぎる恐ろしい食べ物を、晶は苦しみながらも何とか飲み込んで完食した。
「はぁ…。す、すごかった…。異文化とは、奥が深いですね…」
この味が愛される世界があるなんて信じられない思いでげっそりとそう呟く晶に、いまだ腹を抱えて笑っている香月は、いつもの紳士ぶりとは違って何だかとても意地悪に見える。それが新鮮で、晶はとんだお仕置きを食らった後でもちょっと得した気分になった。
いまだに口の中に残る味に顔を顰めていると、いつの間にか笑いを収めた香月が静かにこちらを見つめていることに気が付いた。
「香月さん、私…」
「お仕置き、やりすぎだったかな?…でも、今回は何もされなかったから良かったものの、本当に危なかったのは理解している?」
「…はい。でも―――」
晶が釈明をしようとした途端、その言葉を止めるように、晶の唇に彼の人差し指が当てられた。
晶は驚いて彼の顔を見つめ返す。
「――君が、すべてを背負って頑張ってくれたことはわかった。あの男も、君のおかげで憑物が落ちたみたいだしね。でも、これからは一人で立ち向かおうとしないで。…僕を頼ってほしい」
そう言って、香月は深い海の底を映したような瞳で晶の目を覗き込み、その頬に軽く手を添える。
「…独りきりにして悪かった。…もう、君を独りにしないと約束する」
その言葉に、晶は大きく目を見開く。
それはずっと欲しかったものだった。でも願ってはいけないものだと思っていた。
それを、彼が与えてくれるというのだろうか。
「……香月さんを頼っても、良いんですか…?」
晶は信じられない思いで香月の顔を窺う。家族ではない誰かに頼るなんて、そんなこと、本当に許されるのだろうか?
不安げな顔を向ける晶に、香月は真摯な眼差しを向けた。
「―――もちろん。君を守ることは、僕の特権だからね」
香月は晶の目尻をそっと指でなぞる。
自分でも気付かないうちに、自然と涙が溢れてきて、晶はずっと心の奥底に痞えていたものがやっと取れたような気がした。




