独りっきり
「…ヒックっ…っつっ…」
晶の目から次々と溢れ出る涙を、香月は丁寧にその指で拭っていく。
やがて、それではキリがないと思ったのか、香月は晶の頭をその胸に引き寄せた。
香月の優しい夜の香りがする黒色のシャツに、晶の涙が吸われていく。そのシャツを無意識に握りしめていた晶は、自分の手が小刻みに揺れていることに気が付いた。
(わたし…ずっと、震えたままだったんだ…)
それほどまでに怖い体験をしたことで、晶は嫌でも思い知らされた。
自分が無力だということを。
香月はああ言ってくれたが、結局晶は何の役にも立たない人間で、厄介事まで呼び込んだ挙句、何も出来ずにただ泣き叫んでいただけだった。
強くなったと思い込んで必死に前を向いてみたが、未だに一人では何もできない自分自身が情けなくて、それにも涙が溢れてくる。
今も完全に香月に頼りきっているこの状態に、晶は堪らなくなって彼の胸から無理やり顔を離した。
「すみません…っ。もう、大丈夫です」
泣き腫らしたままの顔を俯かせたまま、晶は香月から少し距離を取り、必死に涙を止める。
これ以上彼を頼ることはしてはいけない。どんなに居心地が良くても、彼が優しくても、その優しさに付け入ってはいけない。そこは晶が弁えなければいけない部分なのだ。
父親に対してそうしてきたように、彼に胸の内をすべてさらけ出して泣き喚けたら、どんなに癒されるだろう。でも、香月とは当たり前だがそれを許されている関係ではない。雇用関係でしかない自分がこれ以上、彼を精神面で頼ってはいけないのだ。
この先一人で生きて行くためには、強くならなくては。辛い胸の内の思いはずっと奥深くに仕舞って、誰にも曝さないようにしなければ、きっと一人で立っていられない。自分では処理しきれない思いは、深い深い所に埋めて、掘り起こさないようにして前を向いていかなければ。
晶は静かに深呼吸を数回繰り返すと、その顔に無理やり笑顔を張り付けて顔を上げた。
「…だいぶ落ち着きました。胸を貸してもらって、ありがとうございました」
「……」
ランプの明かりに揺れる香月の顔は、また無表情に戻っている。それでもどこか複雑な感情を宿しているように見えるのは、きっと不安定に揺らめくランプの明かりの所為だ。
晶は無理やり話題を変えようと、先ほど気になったことを尋ねた。
「そういえば…あの男性はどうなったんですか?」
あの時何が起こったのか見当もつかない晶は、男をあのまま堀越に任せて大丈夫なのかずっと気掛かりだった。
「…ああ、あいつはすぐには起き上がれない状態だから、後でしかるべき場所に連れて行くよ。心配しなくても君の前にはもう現れない」
「起き上がれない状態…。香月さんが、『やっつけた』って言ってましたけど…」
恐る恐る訊いてみると、香月の表情はいつも通りの柔和なものに戻っていて、ふわりと微笑んだ彼はその唇に人差し指を当てた。
「あ~…はい。『ヒミツ』ですね。…分かりました」
これは彼の不思議の一つで、彼の周りで起こる色々と不可解な出来事を、本人曰く『不思議な力』の一言で片付けてしまうのだ。そのことについて訊ねようとすると、いつもこの人差し指を立てたポーズで『ヒミツだよ』と言って天使も逃げ出すほどの笑顔で躱されてしまう。
聞きたいことは山ほどあるが、それを探らないことがここにいる条件なのだから仕方がない。晶は深く追及することを諦めて、今回の彼の仕事について話を聞こうとした。
その時、パッと部屋の明かりが点いた。
「あ…やっと点いた!良かった~~!!」
辺りが明るくなったことでやっと人心地がついた気がして、晶は盛大に安堵の溜息を吐く。暗闇の中でずっと恐怖と戦っていたせいで、普段よりもずっと暗闇が怖くなっていたらしい。
「…りに負けた」
「え?何ですか?」
香月がボソリと何か呟いた気がして、晶は彼の方を振り向いて聞き返す。しかし彼はキラキラした笑顔を見せて首を横に振った。
「何でもないよ。それより、さっきの話で気になったことがいくつかあったんだけど。…またあのバイト、したの?」
キラキラ笑顔のまま訊いてきた香月は、笑顔なのに何故だか威圧感がある。晶はその質問にも香月の圧にも怯んで、無意識にまた彼から距離を取った。
「えっと…はい。店長にバイトを辞めることを伝えに行ったら、卒業ってことで最後に働くことになってしまい…あ!働いたのはもちろんカフェの方ですよ?」
「ふ~ん?」
香月はその美しい瞳を細めると、組んだ足の上に肘をつき、手に顎を乗せて胡乱な目で晶を見る。その視線を受けて晶は自然と冷や汗を垂らした。
晶は先日、自宅アパートを追い出された後に店長に縋ってギリギリアウトな仕事に手を出した。あの時はそれしかないと前向きに考えていたが、今から考えると自分でもどうかしていたと思う。
「…なるほどね。それで君の卒業を知った信奉者であるあの男が、今回暴挙に出たってわけか。でも、普通の人間にしては、少し行動が異常過ぎるな…」
「そりゃそうじゃ。あの男には何か良くないものが憑いておったぞ?」
「!!?」
いきなり近くで女の声が聞こえて、晶の心臓は一瞬止まりかけた。慌てて周りを見回してみるが、部屋には香月と晶以外誰もいない。
不思議に思って香月の顔を見ると、彼は何故だかうんざりした様な表情で天を仰いでいる。
「…?あの、香月さん…今のは…」
ますます不思議に思って訊ねようとした時、彼は徐にジャケットの内ポケットに手を入れ、そこから何かを取り出した。
香月が取り出したものを見て、晶は目を丸くする。
香月の掌には、ハンカチに包まれた二つの真珠のアクセサリーのようなものが載せられていた。二つとも同じような作りだが、ひとつはブローチのようで、もう一つは酷く汚れていたが、どうやらイヤリングのようだった。
「?? 香月さん、これは?」
その時、その二つの真珠が眩しく輝きだしたかと思うと、途端に目を覆うような光の渦が巻き起こる。
「なっ?!」
その眩しさに思わず目を閉じた晶は、やがて光が収まったのを感じて、恐る恐る目を開いた。
すると視線の先には、疲れた様な顔をした香月と、その彼の肩を抱くようにしてしな垂れかかる妖艶な美女の姿が目に入った。
「!!??」
驚きのあまり声も出せない晶に、その美女はニコリと微笑みかける。その微笑みの何と美しいことか。そして彼女の零れんばかりの豊か過ぎる胸が香月の背中に押し付けられているのを目にして、晶は何だかいけないものを見てしまったような思いで顔を赤くした。
「おぬしは、主の使用人のひとりじゃな?こんな幼い女子の身で、よく働いたのう。えらいぞえらいぞ」
「あるじ?…幼い…?」
突然現れた美女に何故か労われ、おまけに幼いと評された晶は脳の処理が追いつかず頭が混乱する。
助けを求めるように香月を見ると、彼はチベットスナギツネみたいな初めて見る表情で晶に説明した。
「…こちらは、ひょんなことから僕が預かることになった真珠の女神です」
「ひょん…?め、女神…?」
そんな雑な紹介に預かった女神は、神々しい笑みを晶に向けて可愛らしく首を傾ける。
「わしのことは「タマ」と呼んでおくれ。これから厄介になるから、よろしくな」
「タマ…様…??」
怒涛の展開に頭がついて行けなくなりそうだった。女神を預かるとは、一体香月の身に何が起きたのだろうか。詳しく話を訊きたいところだが、「タマ」という名前を聞いて晶は大事なことを思い出した。
「そうだ!!レンのことすっかり忘れてた!!」
「……静野さん?…どうかした?」
香月に訊かれて、晶はどう話したら良いか言葉に詰まる。レンを預かることになった経緯はまだ香月に説明していなかった。それに、今考えると襲われた後、屋敷の中で独りぼっちなのが心細かったとはいえ、勝手に子猫を屋敷の中に入れてしまったことは浅はかだったかもしれない。
「あの、実は…」
その時、ドアをノックする音が聞こえ、続いて堀越の声が聞こえた。
「失礼いたします。――瑠依様、申し訳ありません。男を取り逃がしました」
ドアを開けるなりそう言い放った堀越は珍しく焦った様子で、その言葉を聞いた香月はすぐに立ち上がり、そのまま部屋を出ようとする。
(逃がしたって…もしかして、また…)
先程の恐怖が蘇り、男がまた襲ってくる可能性に怖気付いた晶は、無意識に香月の方へ手を伸ばしかけた。
しかし、それは駄目だと自分を律してその手を引っ込める。
「静野さんはこの部屋にいて。僕たちが出たらドアの鍵を。堀越、やつはどこから逃げた?」
「捕縛して旧館の一室に鍵を掛けて閉じ込めていましたが、どうやってか自力で捕縛を解いたようで、窓ガラスを割ってそこから」
「それなら外にいる可能性が高いな」
「わしも行こうかのう。こういう輩は厄介じゃからのう」
「…この屋敷を水浸しにはしないでくださいね?」
「あはははは!善処しよう」
三人が足早に部屋を出ていき、パタンとドアが閉まると部屋には晶一人だけになった。
言われた通り急いでドアの鍵を掛けると、晶は再びベッドに座り、小さく縮こまって深く深呼吸する。シンと静まり返った部屋の中、自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえる。吐き出す息が震えていることには気付かないふりをした。
(香月さん達、大丈夫かな…相手は普通じゃないみたいだし…。そういえばさっき、タマ様が良くないものが憑いてたって言ってたけど…)
もしかして、ついこの間の自分の様に、生きている人間に悪霊が憑いていたというのだろうか?だとしたら、その人は自分の意思とは関係なく晶を襲ってきた可能性もある。
黒い影が間近に迫った時の、あの気味の悪い感触を思い出し、晶はゾクリと肩を震わせる。
あれほど鳴り響いていた雷はいつの間にか遠ざかり、時折微かに天の唸り声が聞こえるだけになっていた。晶はここにいればきっと襲われることはないと自分に言い聞かせ、そのままベッドに横になる。
ドクッ、ドクッと鳴る自分の鼓動を聞いているうちに、晶の瞼は自然と重くなってきた。長い時間恐怖と戦っていた身体は思った以上に疲弊していたようで、ベッドに投げ出した手足は鉛の様に重く感じる。
屋敷の外では香月たちが必死の捜索をしてくれているのに、呑気に寝ている場合じゃない。そう分かってはいるが、抗えない睡魔に襲われた晶は、とうとうその意識を手放した。




