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執着の亡霊






「この辺りで車を停めてくれ」




 堀越の運転する車で、ホテルから約一時間ほど離れた海岸通りに辿り着いた香月は、目的の場所の近くで車から降りた。


 辺りは夕焼けに染まり、雲一つない水平線は見事なグラデーションを描いて夜に沈もうとしている。


 海岸線はその先の方まで岩場が続き、そのごつごつとした地形に高い波が当たっては白い波しぶきを盛大に散らしていた。


 時々通り過ぎる車の他に人通りはない。この辺りの海は潮の流れが激しいようで、車を停めた近くには『遊泳禁止』の看板が立っていた。


 香月は道路から海岸に降りる階段を見つけると、そこを下りて歩きやすい岩場を選び、海の近くまで進んで行く。


 轟音と共に波しぶきが飛んでくるのも構わず、なるべく波打ち際に近づいた彼は、ぐるりと辺りを見回し、誰にともなく話しかけた。


 「この近くですか?」


 「…ああ、ここからもう少し沖の方の海底に沈んでおる。だが、さすがにお主がこのまま海へ入れば、そのまま流されて帰ってこられなくなるぞ」


 荒ぶる高波を目に、香月のすぐ隣に姿を現した女は気遣うような声色でそう言ったが、彼女は真珠が沈んでいるらしき場所を一心に見つめている。長らく探し求めていたものを目の前にして、手が届かないもどかしさがその瞳の中に滲んでいた。


 「正確な位置さえ分かれば、どうにかできると思いますよ。―――ちょっと失礼」


 そう言うなり、香月は彼女の前に立つと、唐突にその頤を取った。


 「? な、なにを…」


 いきなりのことで驚いた女は反射的に身を引こうとするが、背中に回された手と真剣な瞳にそれを阻まれる。


 「シッ、黙っててください」


 囁くように注意して、香月は女を引き寄せるようにその美しく整った顔を近づける。深い海の底を映したような瑠璃色の瞳が間近に迫り、女はその美しさに思わず動きを止めて見入ってしまった。


 香月は蕩けたように魅入っている女の、その軽く開いた口元に自身の親指を近づける。そして下唇を抑えるように押しながら、その親指を口内に侵入させた。


 「!!」


 突然の行為に驚いた女は目を見開き、訳の分からないまま無意識に香月の親指を受け入れる。


 歯列をなぞるように動くその親指の腹が敏感な舌先に触れ、思わずびくりと肩が震える。更に目の前で煌めく瑠璃色の瞳に惹き込まれ、女はそこから目を逸らせなくなった。


 やがて彼の親指の感触と瑠璃色の瞳に酔いが回りそうになった彼女は、脚の力が抜けてカクンと倒れそうになる。それを軽く抱き留めた香月は、女の口から手を離すと、その手をそのまま女の目に翳した。


 「なっ…!?」


 目隠しのように目を覆われた女は、その訳の分からない行為に思わず口を挟もうとする。しかし、先程の酔いそうな感覚から未だに心が追い付かず、脚にも力が入らない。女はただ、はくはくと息をするだけで言葉を発することができなかった。


 徐々に落ち着きを取り戻した女が一言文句を言おうと口を開きかけた時、パッと目の前の手が外された。


 「!! 一体何をす…る……は?」


 「これですか?」


 目の前に掲げられたものを見て、女は途端に開いた口が塞がらなくなった。


 金銀細工は酷くくすんでしまっていて真珠自体も汚れで黒ずんでいたが、それは紛れもなく、今までずっと彼女が求めていた真珠のイヤリングの片割れ、そのものに間違いはなかった。


 「……え?…え、ええっ??…お主、どうやって…??」


 嬉しさよりも驚きのほうが大きくて、目を白黒させて真珠と彼を交互に見る女に、香月は困ったような笑顔を見せる。


 「お口を荒らしてすみませんでした。でも、とてもセクシーでしたよ」


 そう言って妖艶な笑みに表情を変えた香月に、女の中で何かが爆発したような音がした。


 「な、な、ななな…」


 真っ赤な顔で口を戦慄かせている女は、やはり見た目よりも大分初心なのかもしれない。


 そんな感想を香月が抱いていると、ゾワリと空気が揺れたのと同時に、女のすぐ足元に妙な黒い影が差した。


 「!!」


 気が付いた香月は瞬時に女の肩を抱いてそれを避ける。すると、風を切るような音と共に、先ほど立っていた地面の砂が抉られた。

 

 「なにが…?」


 突然のことに素早く辺りを確認すると、薄暗くなった海岸で、何か細長い影のようなものがこちらに向かって伸びているのが見える。


 よく見ると、それは手のような形をしていて、それが無数に海から伸びている。それらはまるで何かを探すように、ゆらゆらと彷徨うように動いていた。


 「…何じゃ?あれは」


 不審な声でそう呟いた女の目線の先、岩場から覗く海の波間に、ぽっかりと人間の頭のような影が浮かび上がった。


 その影のような頭部についた目が、ぎょろりとこちらに向くのがわかり、香月は咄嗟に身構える。


 影は目標を定めたかのようにこちらを見つめると、その目を三日月のように細めてニタリと笑う。すると、海からぞろぞろと染みのようなものが這い出てきた。


 その染みのようなものは、海岸に辿り着くと徐々に形を成し、真っ黒い人の影の影ような姿を現した。それはまるで老人のような背格好で、影はそのまま体を引き摺るようにゆっくりとこちらに近寄ってくる。


 その低く唸るような荒い息遣いと、殺意のような緊迫した空気に香月は既視感を覚えた。


 「あれは…もしや昨日の?」


 それは昨夜、ホテルの部屋で首を絞められた時に感じたものと同じだった。てっきり香月はそれが女の仕業だと思い込んでいたが、どうやらこの正体不明の影のような亡霊の仕業だったらしい。


 痺れるような殺気に危険を感じて香月が女を背中に隠すと、彼女はその影を凝視しながら呟くように言った。


 「……幸次郎……お主、こんなところで未だに彷徨っていたのか……」


 その言葉に、香月は驚きと共にその影を凝視する。彼は執着の亡霊となって、片方の真珠とともにこの海をずっと漂っていたというのか。


 かの氏もまた真珠に縛られていた一人だった。長年恋焦がれても、最後まで振り向かせることのできなかった女神。死ぬまで昇華されることのなかった想いはやがて執着となり、その負の感情で己の魂を怨霊にまで落としてしまったというのだろうか。



 『ヤット…オマエヲ…テニ…』


 

 女の方へ必死に手を伸ばそうとする亡霊は生前の面影もなく、ただ醜悪な怨念の塊のようで、その醜さに香月は顔を背けたくなる。これは誰しもが持ち得る醜さだ。手に入らないものを求め続けた結果がこの姿なら、すべてを諦め続けたほうがマシだと思わせるほど、その姿は見るに堪えなかった。


 では、折り合いをつけられなかった想いは、一体どこで昇華すればいいのだろう。


 あと少しで女の足に亡霊の手が届くというところで、香月が警戒のため女を下がらせようと彼女の肩を掴む。


 その瞬間、亡霊は瞬時に香月に向かって飛び掛かってきた。


 そのあまりの速さに構えが少し遅れた香月は、その手が自身の顔に向けて伸びてきたのを見て咄嗟に顔を背けようとする。


 すると、その手は何かに弾かれ、その拍子に亡霊の体もその衝撃で吹っ飛んだ。


 「…えっ?」


 何が起こったのか分からず、茫然としながら吹き飛ばされて倒れた亡霊を見ていると、香月の前にスッと女が立った。


 「…観念しろ。お前がわしから奪った真珠は、もうこちらの手にある。わしの新しい主が取り戻してくれた」


 その姿は今までとは明らかに違い、神々しいまでに眩しく輝いていた。先ほどまでとは打って変わって、恐ろしいほどのオーラが彼女の周りを包み、香月はその姿に圧倒される。

 

 そんな彼女は能面の様に無表情な顔で、己が吹っ飛ばした亡霊を見つめている。


 亡霊は体勢を整えるためゆらりと起き上がろうとするが、先ほどの衝撃でそれが出来ずにぐしゃりとその場に崩れ落ちた。


 『……ド、ドウシ…テ……』


 「幸次郎…やっとお前に引導を渡す時がきた。よくも今までわしを縛ってくれたな」


 そう言って天に手を翳した女は、無表情のままその手を亡霊に向かって振り下ろす。すると、突然海が轟き、渦巻くような高い波が巻き起こった。


 「…せめてもの慈悲じゃ。魂の消滅まではせん。何もかもを忘れて次の生を全うせよ」


 渦巻く波はどんどん大きくなりながら、こちらに向かってくる。


 やがて大波が海岸に打ち付けると、転がっていた幸次郎氏の亡霊をその波が飲み込んだ。


 『ウギャアアアアアアァァァァァァ!!!』


 断末魔の叫び声を上げながら、亡霊は大波に攫われていく。亡霊を取り込んだ渦巻く波は、その勢いを徐々に収めながら彼の最期の叫びを数多の波間に飲み込んでいった。



 


 「は~、スッキリした。やっと力が戻ったわ」


 「……」


 波が本来の穏やかさを取り戻し、辺りは何事もなかったかのように呑気に鴎の鳴き声が響いてきた頃、目の前の女が大きく伸びをした。


 満足げに微笑んでいる彼女のその様子を見て、香月は改めて彼女が幽霊などではなく、恐るべき力を持った女神だということを思い知る。


 先ほどの海を操るその力の強さたるや、この真珠はもはや特級呪物ではないだろうか。その扱いを一歩でも間違えたら、途端にあの亡霊のように海の底に沈められてしまうのだろう。


 そうなっては敵わないと、香月はゴホンと咳ばらいをして切り出した。


 「…これで、今回の件は解決しましたね。あなたの真珠も二つ揃って、その力も取り戻した。本当に良かったです。…では、僕はお役御免となりましたので、これで失礼させていただきますね」


 そう言って先ほど手に入れた真珠と胸元の真珠を彼女の手に握らせると、香月はくるりと踵を返した。


 しかしすぐに後ろから覆いかぶさるようにがしりと肩を抱かれる。


 「何を言っておる?お役御免などと冗談を言いおって。われらの持ち主はお主ではないか。喜べ!お主は女神の力を手に入れたんだぞ!お主のためならこの力、存分に発揮してやろう」


 そう言ってまた手を天に向ける女を見て、慌てた香月は彼女の手を取って自身の口元に引き寄せた。


 「チュッ…」


 そのままの流れで女の手の甲に軽くキスを落とすと、少しの間を置いて、また女の中で何かが爆発する音が聞こえた。


 「な、な、なななな…なに、なにを……」


 顔を真っ赤にしてそう呟いた女は、その途端ふらりと仰向けに倒れ込む。慌ててその身体を抱きかかえると、女は目を回しながら徐々に小さくなっていった。


 「!?」


 やがて香月の手のひらサイズまで小さくなった女は、ポンという音と共にまるで手品のように姿を消す。


 彼女が消えた後に、香月の手の中に二粒の真珠が現れた。その真珠は今までにないほど美しい輝きを放ち、心なしかその色合いまで柔らかく変わっているように見える。


 それにいつの間にか、この真珠を見た時に感じたあの雨色の感情はもう消え去っていた。


 まるで喜んでいるように柔らかい乳白色に輝く真珠を見ながら、香月はやれやれと複雑な顔で溜息を吐く。


 「…これは、お持ち帰り確定ってことかな…」


 とっぷりと夜の闇に沈んだ空に浮かぶ月だけが、彼が波間に落とした呟きを聞いていた。

  












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