真珠の嘆き
「やはり、ここでしたか」
岩礁を叩く波の音が穏やかに響く岬のガゼボ。そこに置かれた籐製のソファにゆっくりと腰かけ足を組むと、香月は斜め前に座る着物姿の女に目を向けた。
目が眩むほどに明るい午後の日差しが降り注ぐ日向とは対照的に、ガゼボの中は暗くそのせいか女の姿はぼんやりとしていて、今にも消え入りそうに見える。
相変わらずしどけない着物姿の彼女は、ふと夢から覚めたような顔を見せると、やっとその存在に気づいたかのように香月の方に顔を向けた。朝方に見せた陽気さは成りを潜め、どこか儚げな様子の彼女は今まで泣いていたのか、心なしか目元が赤く腫れているように見える。
「…なんだ、お主か」
「なんだとは酷い言い草ですね。こちらはあなたのために必死だったというのに。…やはり、ここから離れ難くなりましたか?」
彼女の様子からそう察して訊いてみたが、言われた彼女は薄く笑いながら首を振った。
「ふふっ、そうではない。…いや、そうなのかもしれんな。いつまでも失ったものを嘆いていても仕方がないと分かってはいるが…どうしても自分では折り合いがつけられん」
自嘲するような笑みを浮かべたまま、女はまた海の方へと視線を戻す。その静かな眼差しに再び既視感を覚え、香月は静かに胸の内側を波立たせた。
「…あなたの話からすると、その失ったものというのは、取り壊された元木幸次郎氏の別荘ですか?」
探りを入れるため敢えてその名前を出してみたが、彼女は僅かに目を見開いたのみで、すぐに目を閉じて首を横に振った。
「いや…。お主にはそう言ったが、実はわしはその幸次郎の屋敷に訳あって居座っていただけで、建物自体に取り憑いていたわけではないんじゃ。むしろ、あんなもの無くなって清々したわい」
「清々…その屋敷で何か嫌な思い出でも?」
香月の問いに、女は薄く笑みを浮かべるだけで何も答えない。
彼女は生前に幸次郎氏の愛人として奥座敷に囲われていたのではないかと香月は予想していた。しかし、もしそれが彼女の意思に沿わないことであったなら、彼女にとって別荘はまさに牢獄のような場所だったのかもしれない。
だとすると、彼女はその恨みを晴らそうにも、その相手が亡くなってしまったがためにずっと未練として残り、未だ成仏できずこの辺りを彷徨っていたということだろうか。
もし仮に、彼女の言う未練が生前の幸次郎氏に復讐が適わなかったことだとしたら、その身代わりを探して夜な夜なホテルの部屋に現れ、その標的にされた自分が首を絞められたということか。しかし、その身代わりとはこの地を離れるための身代わりなのだから、それを攻撃するのは理に適っていない。
(―――考えたところで、意味はないな)
そもそも霊などと言われる存在は、この世の理の外にいるものだということを思い出す。それらは自分の中の理で動いているのだから、その行動に一貫性を求めるなど馬鹿げた話だ。
香月は溜息を吐きながら、真実の解明よりもさっさと話を進めようとポケットから箱を取り出した。
「お約束のものを用意してきましたよ。あなたに気に入ってもらえると良いのですが」
香月の手にしたものを見て、女はぱっと表情を明るくした。
「お、何じゃ早かったのう。どれ、見せておくれ」
上機嫌に戻った女は、身を乗り出して香月の手元を覗き込む。しどけない姿の胸元が零れそうになるが、彼女は気にも留めない。その様子に香月は礼儀的に目線をそっと外しながら、彼女に良く見せるように箱の蓋を開けた。
「……」
そこに鎮座する、虹色に輝く雫型の真珠を見た瞬間、女はこれでもかというほど目を見開き、しばらく茫然とした顔をしていた。
しかし、次第にその表情は鬼の形相に代わり、強い怒りを顕わにして香月の顔を睨みつける。
「……お主まで、このわしを縛り付けるつもりか?」
「!!」
低く唸る様な声でそう言った女は、言い終わるなり彼の喉元に手を伸ばしてその首を締め上げようとする。
訳の分からない香月は、とりあえず彼女の指に力が入る前に降参とばかりに両手を上げて見せた。
「ちょっと待ってください。まったく話が見えてこないんですが…。とりあえず僕に女性を縛る趣味はありませんよ。興味はありますけど」
「………は?……趣味?…興味??」
「ついでに言うと、首を絞められる趣味もないと昨夜言いましたよね?」
香月のその余裕の態度に毒気を抜かれたのか、女はゆるゆると首を絞めようとしていた手を緩めた。しかし、いまだに恨めしそうな顔で香月を見つめている。
「一体何の話じゃ…?」
「それはこちらの台詞です。「縛り付ける」というのは、どういうことですか?幸次郎氏とあなたは恋愛関係にあったのではないのですか?」
「……はんっ!冗談じゃない。お主、この真珠を手に入れたということは、あの狸に会ったんじゃろ。その時に何を聞かされた?」
彼女が綿貫のことを知っていることに内心驚きつつ、彼女の言葉に香月は思考を巡らせる。先ほどの様子から、彼女の未練が亡くなった幸次郎氏への恋情だという線は完全に消えた。
その時、今まで考えていたものとは別のある一つの可能性に思い至るが、それを否定したくて頭の中ですぐに打ち消した。
「……僕が聞いたのは、幸次郎氏は女性ものの贈り物を思い人のためにたくさん購入していたとか、この真珠は実は片割れで、幸次郎氏が亡くなった時にはすでに片方が行方不明になっていたということですかね。…あと、元々この真珠には色々な曰くがあるとか…」
女はそれを聞いてふんと鼻で笑うと、美しい顔を怒りで歪ませながら頬杖をついた。
先ほどからする嫌な予感に、香月はもうこれ以上足を突っ込みたくなくて心の中で盛大な溜息を吐く。しかしここで打ち切るわけにもいかず、香月は話を続けた。
「…先ほどのあなたの反応を見るに、僕の一つの予想は外れましたね。そうなると、考えられるあなたの未練というは「片割れの真珠」ということでしょうか?」
その言葉に虚を突かれたような顔を見せた女は、やがて凪というよりは無に近い表情で香月から視線を外すと、先ほどと同じように午後の太陽に煌めく緑青の海を見つめた。
そんな彼女の反応を窺いつつ、香月はそのまま続ける。
「…あなたは、できるなら真珠に宿りたいと言った。でも僕が用意したこの真珠を見て、あなたはとても怒りましたね。そこから予想するに、この真珠が片方無くなったことと、あなたと元木幸次郎氏の間には何か因縁があるのではないですか?」
「…因縁。…確かにそうじゃ。わしは、できることならあやつをこの手でこの世から消し去ってやりたかった」
吐き捨てるようにそう言った女の瞳には、冷たい炎のようなものが宿っていた。その瞳の色にどこか既視感を覚えた香月は、急速に自身の頭が冷えていく感覚にぐっと奥歯を嚙み締める。
(……今は、それどころじゃない)
過去に持っていかれそうになる意識をすぐに引き戻した香月は、心を落ち着かせるために静かに息を吐く。これ以上引きずられないように彼女から僅かに目を逸らすと、香月はいよいよ話の核心に迫るため慎重に尋ねた。
「…それほどまでに幸次郎氏を恨む理由を、教えてくれませんか?」
女は、いまだにちらつく青い炎を更に強くして香月の顔を見据える。
「あれは、わしを手に入れるため、片割れを海に投げ捨てたんじゃ…」
「投げ捨てた…?あなたを手に入れるために?」
「…あやつが片割れを失くしたのは、わしの力を削いで自分のもとに置くためじゃ」
その言葉に、香月は一瞬息を詰める。先ほどから一つの可能性として予想していた答え合わせの時が、いよいよ来てしまった。
この真珠は元々、幸次郎の父親の元木幸之助が狸堂から購入したものだということだった。そこから香月は、幸次郎氏がこの真珠を使って彼女の気を引こうとしていたのだろうと思っていたが、綿貫から聞いた真珠の曰くの話を思い出した時、別の可能性に思い至った。
そのせいで先ほどから眩暈がする思いだが、香月はいよいよ覚悟を決める。
「……つまり、僕のもう一つの予想が合っているなら、あなたの正体はこの真珠に古くから宿る女神ということですか?」
香月の問いに、女は静かな笑みを浮かべた。
その今まで見たことのない、神々しささえ感じる表情を目にして、香月は静かに席を立ち、その場に片膝を着いて軽く頭を垂れる。
「…やめてくれ。お主はもうわしの主人のようなもの。本来ならその足元に頭を垂れるのはわしのほうじゃ。そうすべきか?」
「…いえ。それも僕の趣味じゃありません」
そう言って顔を上げた香月は立ち上がり、ソファに腰かけるとまた元の体勢に戻った。神の存在を前に一応礼儀は見せたものの、さして以前と変わらぬ態度をとる香月に当の女神である女が顔を綻ばせる。
「ふふふっ。お主は良いのう…。わしの主人にピッタリじゃ。お主の中にはこのわしをも畏れさせる何かがある。そこがまたいい」
「それはどうも。話を戻しますが、つまりあなたは二粒の真珠に宿る女神なのですね?それは一体いつから?」
「いつからかなど、もうわからないくらい遠い昔じゃ。…この真珠が生まれた時からわしはここにいるが、その前は別のものに宿っていたこともあったのう。その時々でわしを宿らせることができる器に宿ってきたんじゃ」
そう言って彼女は何かを懐かしむような、遥か遠い過去に思いを馳せるような目をした。その眼差しに太古から連綿と続いてきた記憶とその存在の重みが見えるような気がして、香月でさえ自然と畏敬の念が湧き上がる。
「…では、今の依り代である片割の真珠が失われたことで、あなたの力にも影響が?」
「これは二つで一つの完全体だからの。片方だけではわしは力を使えないばかりか、自分で依り代を探すこともできなくなってしまった」
女神はその目に諦観の色をのせて真珠のブローチを見つめる。
「…ああ、それで僕に代わりの真珠を探させたんですね?」
「そうじゃ。だからお主が見つけた真珠が、わしの宿れるほどのものであればこんな場所からやっと抜け出せると思ったんじゃ。だが、こやつがここにあるということは…どうやらこいつらとはまだ切っても切れない縁があるらしい」
そう言ってまるで自分の子供を見るような眼差しを真珠のブローチに向ける彼女に、先ほどの剣幕はどこに行ったんだと思わずにはいられない。神は気まぐれという謂れがあるが、まさにそれを目の当たりにしている気分だった。
「…幸次郎氏は、あなたを縛り付けるために片割れの真珠を海に投げ捨てたと言っていましたね。それはどういうことですか?」
「……あやつはわしが力を失うことをわかっていて投げ捨てた。あやつは、わしへの恋情の末に…執着の鬼に成り下がったんじゃ―――」
彼女の宿る二粒の真珠は、それまでその特殊な力のために様々な人の手に渡ってきたが、それが巡り巡って狸堂の店主の手に渡ったのは、今からおよそ百年前。
その時、偶然店を訪ねた元木幸之助氏がこの真珠と出会い、その圧倒的な存在感と美しさに魅了される。彼はこの地で真珠の養殖業を成功させようと躍起になっていたが、当時は実現不可能だと思われていたほど困難な道のりで、中々思う通りに行かないことが多く気持ちがささくれ立っていた。
そんな時に出会った真珠に虜になった彼は、あちこちの知り合いから借金をしてさらに当時事業のために貯めていた資金まで使ってこの真珠を手に入れた。幸之助氏は周囲から気でも狂ったかと非難されたが、彼はそれから自身の事業と並行しつつ様々な職に就き、そこで死に物狂いで働いて早々に借金を返済した。
真珠に宿る彼女はそんな彼の決してあきらめない胆力と真っ直ぐな気性を気に入り、少しばかり物事が上手くいくように力を貸してやった。すると、それまでどうしても上手く行かなかった養殖の実験が成功し、幸之助氏の事業が軌道に乗り出した。
やがて事業が軌道に乗り生活も安定したころ、幸之助氏に二人の子供ができる。その二人目の子である幸次郎氏は、成長とともにはっきりと真珠のそばにいる彼女の姿が見えるようになったのだという。
「―――それまで幸之助含めて、真珠を手に入れた人間でわしのことをはっきり見ることができたものはおらんかったのでな。…それもあって慕ってくる子供が可愛くて、ついかまったりもしてやってたんだが…そのうちあれはわしに恋情を抱くようになってな」
はじめは微笑ましくあった幸次郎氏の思いは、次第に執着へと変わっていった。
真珠、ひいては女を手に入れるため、幸次郎氏は父親に真珠を譲ってほしいと頼み込んだ。すると、何の後ろ盾もない状態で一から事業を興し、それを成功させたら譲るという確約を得た。彼はそこからあらゆる手段を用いて自身の事業を拡大させていった。
結果的に自身の会社を大企業に成長させた幸次郎氏は、約束通り真珠を手に入れることができた。
「しかしな…わしは己の欲望のためにあらゆる手段を用いたやつの気性が気に食わんでの。やつの手に渡った後、その必要もないと姿を見せなかった。ずっと真珠の中で眠っていたんじゃ。そうしたら、やつめ…なにを思ったか、突然片方の真珠をどこかに持ち去った。…あの時の引き裂かれるような痛み…今でも思い出せる」
片割れの真珠を持って幸次郎氏が向かったのは、別荘の庭先にある東屋で、彼はそこからイヤリングだった片割れの真珠を海に投げ捨てた。
「あの時、やつは笑ってこう言ったんじゃ…「これでお前は逃げられない」とな。わしは半身を抉られたような痛みと悲しみに怒り狂った。しかし、力を失くしたわしは投げ捨てられた片割れの真珠を探すことも、また代わりの真珠を探してそこに宿り遠くに逃げ出すこともできなかった。何も出来ず、どうすることもできない自分を嘆いてふらふらと彷徨うことしかできなかった…」
彼女を閉じ込めるため、幸次郎氏は屋敷に奥座敷を作らせ、そこに残された真珠を厳重に保管した。結界が敷かれ、鍵が掛けられた奥座敷の中で、彼女はそれからの時間、そのほとんどの時間をそこで過ごすことになった。満月と新月の大潮の夜だけは僅かに力が戻る彼女は、その時に屋敷の周辺を彷徨っては、どうにもならないことに絶望し嘆いていたという。
「―――やつが死んで、わしを閉じ込める屋敷も無くなり、真珠は別の手に渡った。もう閉じ込められるのはこりごりだとそいつから離れ、とりあえずこの東屋が建っている岩場を依り代として彷徨っていたんじゃが…それなりに長く宿っていたので、その真珠自身の嘆きが伝わってきてな…」
そう言ってブローチの真珠を見つめる彼女の目は悲しげだったが、女神という名に相応しくその顔は慈愛に満ちている。
「そいつ自身?真珠自体にも意思があると?」
「ああ…そいつらは生まれた時から、それぞれ男と女の魂が宿っていたんじゃ。とは言っても、意思疎通ができるほどじゃない。ただ、「空っぽ」ではないというくらいじゃ。そいつらが宿っていたことで二つの真珠には男女の仲を取り持つご利益があったんじゃが…引き裂かれたことでこれらはずっと嘆いておる。どうにかしてやりたいが、今のわしの力ではどうにもできん」
香月は手元のブローチを見つめる。この真珠を見た時から感じていた妙な感覚の正体は、この真珠が発する嘆きの感情を無意識に拾っていたことによるものなのだろうか。
嘆き。それは確か、喪失からくる感情。
それがもたらすものはきっと、あの雨色の感情だ。
香月はあの雨の降る夜に蹲る少女の後ろ姿を見た時に感じた、胸の内をざらりと撫でるものの正体に気付き、静かにぐっと奥歯を噛む。
しかしそれはほんの一瞬で、彼は冷静な表情を取り戻し、彼女に向き直った。
「…その失われた真珠は、いまだに海を彷徨っていると。先ほど、この真珠の嘆きが伝わると言っていましたが、失われた方の真珠からも何か伝わってくるのですか?」
「ああ、そちらからも初めのうちは伝わってきてはいたが…近頃は嘆きというより諦めの感情が強いな」
そう話す彼女の表情にも諦めの色が濃く、その顔を見ながら香月はしばし考え込むように沈黙する。やがて彼は一つ息を吐くと女に向き直った。
「その伝わる感情から、今、その真珠がどのあたりにあるのか見当が付きますか?」
その言葉に、虚を突かれたように目を丸くした女は、次に訝しむように香月を見た。
「…やつの声を頼りにすればおそらく。しかしそれを聞いてどうする?まさか、お主が海に潜り海底を浚って探してくれるというのか?」
香月はそれには答えず、ふいにブローチを箱から取り出した。涙型の青白い真珠は、その感情をそのまま体現したかのように美しくもどこか儚げに輝いている。
香月はその輝きを自身の胸元に飾ると、不敵な笑みを浮かべた。
「まぁ、やってみましょう」




