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無意識の雨色






 少女の霊が消えた後、コテージエリアのスタッフの話を聞き終えた香月は、堀越と共に地元の図書館へ赴いた。


 この地に今回の件に関する伝承等がないか調べるためだったが、この地域の郷土資料をあたってみても特にめぼしい情報は得られなかった。


 また、少女の霊があの場所に現れる理由について、以前にそこで事件などがあったかどうかも調べてみたが、あの土地はずっと別荘地で特に火災や殺人などの事件があった記録は見つからなかった。


 こうなると、別荘を所有していた一族に所縁のある霊という線が濃厚になってくる。


―――あの少女の霊とこの部屋の怪奇現象は、何か繋がりがあるのだろうか?


 もしまたあの少女の姿を見ることができたら、この部屋の怪現象について何か手がかりが掴めるかもしれない。


 ホテルへ戻り、問題の部屋に泊まるための準備を進める中、香月は今夜何も収穫がなければ明日もまたあのガゼボに赴いてみようと考えていた。



 「瑠依様…本当にこちらの部屋にお泊まりになるのですか?」


 堀越の問いかけに意識を引き戻した香月は、止まっていた手を動かしながら呆れたような顔を向ける。


 「…別に大丈夫だろう。すぐ近くに人もいる環境だし、今までの被害者だって危害を加えられたという話もない」


 「それはそうですが…」


 先ほどから何度も確認する堀越に、香月は心の中で苦笑する。彼は香月が例の部屋に泊まることを一度は了承したものの、正体のわからないモノが出る部屋に己の主人を一人で泊まらせてもいいものかと逡巡しているようで、昔から崩れないその一貫した姿勢に香月は溜息を吐きつつも僅かに口角を上げた。


 堀越の心配をよそに、香月は今夜、問題の金縛りと子供の声が聞こえるという部屋で一夜を過ごすことにした。今のところ特に霊的なものを感じることはないが、その現象が特定の条件下で起こるとするなら、それはこの部屋で男性が寝ているときに起こると予想されるためだ。


 初日からお目見えできるとは思っていないが、なるべく早めに解決したい。香月は何でも良いから手掛かりを掴みたい思いで、危険性が低いことを理由に渋る堀越を納得させたばかりだった。


 「でも何が起こるかわかりませんし…。やはり、初めは私がこちらに泊まりますよ」


 堀越の申し出に、香月は更に苦笑する。


 「お前は霊がほとんど見えないだろう?それに考えてみたら、今あの屋敷で留守番をしている静野さんのほうが、結構ハードな環境にいると思うよ?だから早く解決して帰らないと」


 香月は言いながら、そんな発言をする自分自身に内心驚いた。それは堀越も同様だったようで、彼は更に驚いた様子でまじまじと香月を見返す。


 「…確かに晶さんのことは心配ですが…。わかりました。それなら、くれぐれも無茶はなさらぬように。何かあればすぐに隣の部屋の壁を叩いて知らせてくださいね?」


 「わかったよ」


 軽く笑いながら了承すると、堀越はやはり心配そうな顔のまま、不承不承といった風に部屋を出ていった。



 

 「さてと…」


 時刻はもうすぐ深夜に差し掛かろうとしている。今日中にやっておきたい仕事は残っていたが、モニターに向かってしまえば時間の感覚が無くなるのは分かりきっていた。


 そうなっては元も子もないと、香月は手早くシャワーを済ませ、部屋着に着替えると早々にクイーンサイズのベッドに潜り込みライトを消す。


 さすがに眠れるとは思わなかったが、横になった香月は一応目を瞑った。外界からの情報を遮断すると、彼はリラックスするために意識的に思考をシャットダウンする。



 暫く何も考えずに目を瞑っていると、ふと脳裏に今日の出来事が思い浮かんできた。


 今朝は久々に熟睡でき、すっきりと目を覚ますことができた。これが堀越の言う『女神からのギフト』というやつだろうか。あの時の彼女の動揺した姿を思い出し、香月は自然と口角を上げる。


 彼女を身近に感じながら眠ると、自分でも驚くほど安眠できてしまう。それは何故なのか、香月自身にも分からなかった。


 彼女の場合、人の気配があれば眠れるようだが、自分はそうではない。昔から、世話係の堀越が近くにいたとしても余計に眠ることができなかったし、過去に遊びに付き合った子と一晩一緒に過ごした時も同様に眠ることはできなかった。


 特にここ数年は、眠ること自体にある種の強迫観念のようなものを感じていたため、昔以上に不眠の症状が重くなっていた。


 気を失って倒れるまで眠れない状態が続いていた中、先日彼女が巻き込まれた事件が解決した夜に、彼女と共に朝まで眠ることができたのは自分でも驚きだった。


 彼女に対してある程度の信頼があるからという理由も考えたが、それも違うような気がする。雇い入れる前から彼女の身辺は調査済みで、その結果、不審な点は皆無だった。今のところ親戚や他家の息もかかっていない様子だが、それが眠れる理由とは考え難い。


 自分とは無関係な人間だから、裏を読まずにいられて安心するのだろうかとも思ったが、それなら以前にもそう言った人間が近くにいた経験もある。それでも、眠ることはできなかった。


 安心するという意味では、彼女が眠っているのを見ると安心するのは確かだった。


 今までずっと一人で夜の孤独に怯えていた彼女が、少しでも安らかに眠れるようにと思わずにはいられない。父親を亡くした彼女に手を伸ばしたのは、もしかしたらそんな願いが芽生えたからだったのかもしれない。


 ―――今もありありと思い出せる。雨の中、ひとりで蹲る彼女の後ろ姿。



 あの時の彼女は、傍から見ていても不安定で見ていられず、手を差し伸べずにはいられなかった。でもそれは、今から考えると驚くほど自分らしくない行動だった。


 つい先日、彼女を屋敷で雇い入れることを伝えた時の堀越の顔は見ものだった。香月の顔をしばらく凝視し、その後何故か浮かれた様子を見せた彼は、誤って盛大にティーポッドを床に落としていた。更に慌てて片付けようとして今度は濡れた床で滑って転んでいたし、その後も、彼は長い付き合いの自分でも見たことのない失態を繰り返していた。


 他人から見てもそれ程驚くくらいなのだから、自分にとって今までにないほどの革命的な変化が起こったということなのだろう。


 表面上はどうあれ、今まで本心では他人を気にしたことなどなかった。それまで多少の情が沸いたとしても、邪魔になると判断したら捨てることは容易かった。


 それなのに、今の自分はどうだろう。彼女の孤独を間近で感じてしまったがために、今までの様に情を捨てられなくなってしまったというのだろうか。


 香月は心の中で自嘲ともとれる複雑な笑みを浮かべる。


 これは俗にいう庇護欲というものだろうか。これまでに得た知識から推測すると、この感情に名前を付けるならそういうことになるのだろう。


 

 ―――空っぽの容器に僅かに入ったのは、純粋な願いか、己の欲か。



 そして、それとは別の、あの事件の時に彼女から感じた、冷たい雨のような感情。


 霧雨の様に静かに降り籠めるそれは、昔どこかに置いてきたものに似ているような気がした。

 

 その陽炎の様にぼんやりとした記憶を掴もうとした途端、意識が光の届かない海の底に沈んでいく感覚に囚われる。


 (……っ!)


 まるで息苦しさまで感じる程に淀んだ海底を漂う感覚に、香月は思わず目を開けた。震える息を吐き、昏い澱みを含んだ瑠璃色の瞳を揺らして香月は暗闇を見つめる。


 早鐘を打つ鼓動と、いまだに拭えない感覚が煩わしくて、彼は思考を切り替えるべく深く息を吐いて寝返りを打った。


 その拍子に、胸元からシャラと微かな音がした。


 視線をそちらに向けると、自分の襟元からターコイズの嵌った指輪が滑り落ちているのが目に入る。


 この指輪は、事件の後に晶が自身のことを守ってくれた礼として香月に贈ってくれたものだった。


 あの時自分が彼女を守ることになったのは互いの利害の一致からであって、礼を言われるようなことは何一つしていなかった。むしろ、自分の利益のために彼女を危険に巻き込んだ自覚がある。それなのに、彼女は香月に救われたからと、何の打算もなくこの指輪を香月に贈ってきた。

 

 彼女はこのターコイズの指輪が幸運のアイテムになることを聞いて、そのまま純粋に香月の幸運を願って贈ってくれたようだが、それは、少なからず香月にとって衝撃的なことだった。

 

 それまで他人からのプレゼントはすべて打算に満ちた無価値で無意味なものと認識していた香月は、そのしがらみを避けるため、あえて他人から直接何かを受け取ることはしてこなかった。


 幼少の頃から自分に対するあらゆる負の感情を一身に受け、人間の裏側ばかり見てきた香月にとって、これほどまで打算のない贈り物をおくられたのは初めての経験で、あの時の動揺を思い出すと、いまだに胸を掻き毟りたくなる。


 香月はチェーンから指輪を外し、小指にそれを嵌めて自分の左手を眺める。


 僅かな明かりを頼りにぼんやりと見えるその指輪は、ツタの絡まる意匠が施されたアンティーク調の金のリングに、小指の爪ほどのサイズのコバルトブルーの石が嵌め込まれていた。


 『ターコイズは人から贈られると、その人は幸せになれる』


 この指に指輪を嵌めてきた時の、彼女の顔を思い出す。あの時、眩しい笑顔が自分に向けられたことにも、香月の心はひどく動揺していた。


 彼女は説明不足で得体の知れない自分のことを詮索することもなく、ただありのままで接してくれている。自分にとって都合が良すぎることだとわかってはいるが、それが思いのほか心地良くて、つい忘れてしまいそうになる。


 その危うさに気付いて、意識的に心に蓋をした。自分の役割を忘れないように。

 

 どんなに息苦しくても、息をしてはならない。呼吸を意識すること自体が罪なのだから。



 「ふぅー…」


 香月は深く息を吐いて目を瞑る。今度こそ、自ら仄暗い海の底に沈むために。


 手探りで指からターコイズの指輪を外すと、まるで大切な何かを包む様に右手の中にそっと握り込んだ。


 徐々に闇に沈みゆく意識に覚悟を決めた時、網膜の隅で一瞬だけ、朝日の中、頬を染める彼女の笑顔が見えた気がした。





***





 突然、ズシリと体全体を覆う圧迫感に香月は目を開いた。


 しんと静まり返る暗い部屋には、何者かの荒い息遣いが聞こえている。その声は低く、地を這うように響いていた。


 香月はその正体を見極めようと、サイドテーブルにあるライトに手を伸ばそうとする。しかし自身の指一本も動かせないことに気付き、彼は心の中で舌打ちをした。


 何者かが体の上に覆いかぶさるような圧迫感に息が詰まり、いつの間にか額に汗が浮かんでいる。


 次第に、何かが首を這ってくる感触がして、ゾワリと肌が粟立つ。這ってきたものの正体はどうやら人の指らしく、徐々に締め上げるように指先に力が込められていく。


 (…こんな歓迎の仕方は、聞いてない…)


 喜ばしいことに初日から相まみえた怪異は、聞いていたものよりも大分過激で、これはどういうことかと冷静な頭で考える。もしかしたら香月の正体とその目的が見破られていて、自分を排除しようとしているのだろうか。


 息苦しさが増していき、自分の鼓動がドクンドクンと脈打つ音が脳に響いて聞こえる。


 香月は苦しみの中、徐々に霞んでいく意識の片隅で、何故かふと、先日の事件で晶の中に取り憑いた霊と対峙した時のことを思い出した。


 (…こんなに、苦しかったのか…)


 晶の身体を操っていた霊を取り除くためとはいえ、晶に自分自身で首を絞めさせて霊を追い出させようとした。あの時は結果的に成功したものの、苦しそうな彼女の姿を見た時、今まで感じたことのない苦味のようなものが口の中に広がった。


 その時のことを思い出すと、今でも腹の底に不快な感覚が湧き上がる。これがよく聞く『罪の意識』というものだろうか?


 (―――馬鹿馬鹿しい)


 香月は心の中で吐き捨てた。そんなものを今更感じたとして何になるのだろう。


 その時の最良の選択をした結果なら、それを後悔するなんて馬鹿げている。そんなものを感じる暇があったらやるべきことをやって前へ進むべきだ。立ち止まれば足元を掬われて引きずり戻されるだけ。


 今までその考えに疑問を持ったことなどなかったのに、なぜか今は不快な感覚がその存在を益々主張してくる。


 (……クソっ)


 香月は今なお強く首を絞めつけてくる正体不明の何者かにではなく、自分自身に苛立ち、もういっそこのまま絞殺されれば良いのではと自暴自棄になった。


 その時、霞む意識の中で、遠くの方から子供の笑い声が聞こえたような気がした。


 途端にパッと香月の首を絞めていた手が緩む。


 香月は本能的に大きく息を吸い込み、反動で盛大に咳込んだ。それでも何度も空気を肺に満たすよう呼吸を繰り返していると、いつの間にか正体不明の気配と圧迫感が消えていることに気付く。


 香月はいまだに咳込みながら目を瞑り、ベッドの上で脱力した。


 とりあえず一命は取り留めたようだが、次は何が来るのかわからない。息を整えながら周りの気配を探ろうとした時、今度は子供の笑い声が、すぐ近くから聞こえてきた。


 「…ふふふっ…」


 高い声で笑うような声と共に、どこか花のような香りを嗅いだ香月は、次の瞬間、再びズシリと腹を圧迫する重みを感じて思わず目を開ける。

 

 「あっはははっ…」


 目を開けても部屋の中は暗闇で、その正体は判別できない。まるで頭の中に直接響いてくるような甲高い声は、子供のものとも若い女性のものともとれる。


 すると今度は頬に何かが当たる感触がした。


 こそばゆい様なその感覚は、髪の毛だろうか。頬を掠めるように揺れる髪の毛を意識した途端、間近に何かの息遣いまで感じ始め、それと同時に更に胸に圧迫感を感じた。


 「んふふっ…」


 どうやら何者かが香月の身体に馬乗りになって顔を覗き込んでいるようだった。圧迫感に耐えて暗闇の中で目を凝らしていると、徐々にその姿が輪郭を成してくる。


 そこには髪の長い女の姿が浮かび上がってきた。


 彼女は笑いながら徐に腕を伸ばし、香月の頬を包む様に手を当て、じっと愉快そうに香月を見つめている。


 この女が先程首を絞めてきた霊なのだろう。息苦しさに加えて身体の自由が利かず、おまけに声も出ない。助けも呼べない状況の中、香月はそれでも冷静に反撃の機会を伺って相手の出方を見ていた。


 「…やっと、見つけた…」


 そう言って徐々に顔を近づけてくる女の、その瞳を香月は見つめる。


 「なっ…!!」


 驚いたような声を上げた女は、弾かれた様に香月の体から飛び退き、呆然としたままベッドの端にペタリと座り込んだ。香月は自分の身体が動くようになると、警戒しながら半身を起こし、ベッドサイドのライトを点ける。


 明りによりその女の姿がはっきりと認識できるようになった。


 女は、腰まで伸びた黒髪に薄い着物姿で、肩までずり降ろされた共衿から覗く白い胸元が艶めかしく、赤く濡れた唇と共に男を誘い慣れたような姿をしている。


 そんな姿をしている割には、その顔にはあどけなさが残り、目を見開いた表情はさらに彼女を幼く見せていた。


 「…お主、何者じゃ?」


 目を見開いてまじまじと香月を見返していた女が、警戒しながら問う。それを聞いて香月はさも心外だという風に僅かに呆れた表情を見せた。


 「…それはこちらの台詞です。あなたこそ何者ですか?」


 「わしか?昼間に会ったろう?」


 「……は?」


 驚いて今度は香月がまじまじと目の前の女を見る。


 良く見ると、言われてみれば確かに昼間に岬で会った霊の姿と重なるところはあった。しかしあの時の少女は十歳前後といった姿だったが、目の前の女はそれよりも遥かに大人びた印象で、成人間近の女性といった印象だ。


 「…それにしては急に成長し過ぎでは?」


 当然の疑問を口に出すと、少女は鼻をつんと上に向けて、自慢気に言った。


 「わしぐらいになると、見せ方なんぞ自由自在だからな。それともおぬしは昼間の姿の方が好みだったか?」


 「いえ…。いきなりあらぬ疑いをかけるのはやめてください」


 香月は一瞬脱力しかけたものの、気を取り直して改めて目の前の不可解な存在を前に居住まいを正す。


 「それで、昼間岬にいたあなたが、どうしてこの部屋に?」


 「お主に会いに来たんじゃ」


 「僕に?…それにしては、熱烈な歓迎でしたね」


 「お主には刺激が強すぎたか?てっきり遊び慣れていると思ったんじゃが」


 「…僕にはそんな過激な趣味はありませんよ」


 一体こんな時に何の話をしているのか。あちらのペースに乗せられて混乱気味な香月は頭を振って意識を切り替えた。


 「…ちょっと確認します。僕はこのホテルの関係者から正式に依頼を受けて、この部屋で起こった怪現象を調べに来たんですが…今までこの部屋で起こった怪現象は、あなたが原因ということですか?」


 「まぁ、そうじゃの」


 そう言って目の前の少女はツンとそっぽを向く。その不貞腐れているような様子がますます彼女を幼く見せたが、香月はまさかのご本人登場で内心呆気にとられたものの、当然の疑問を口にする。


 「…一体なぜ、こんなことを?それに、僕に会いに来たというのは、どういうことですか?」


 そう尋ねると、少女は見るからに態度をしゅんとさせ、上目遣いで香月のことを見つめてきた。 













 


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