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隙間に入り込むもの




 


 「こちらになります」



 風に煽られたココヤシの木が白いタイル張りの小道にユラユラとその影を落とし、植え込みに南国を思わせる花々が明るく咲き乱れる新館エリアに香月は足を踏み入れた。


 異国のリゾートをコンセプトにしたコテージでは、夕方のチェックインを間近に控えたスタッフが手際よく客を迎える準備を整えている。


 その忙しない空気の中、香月は女性の泣き声が聞こえると噂のある場所まで椎名の案内で向かっていた。


 事情を知らないスタッフが時折、総支配人と共に歩を進める年若い香月のことを特異な目で見る事もあったが、彼らも暇ではないのでそれらの視線は一瞬で過ぎ去っていった。香月は今回、些末な厄介事を回避するために瞳の色を隠してきたのだが、それがいくらか功を奏したらしい。


 木材のデッキで舗装された道を新館のエリアの奥の方まで進んでいくと、岬の先端に小さなガゼボが見えてきた。


 「先ほどのポーターに話を聞いて、大体の位置を確認しました。どうやらこのあたりで泣き声が聞こえたようです」


 支配人に案内されたそこは、コテージエリアも過ぎたホテルの敷地の端の方で、海に突き出た岩場を利用して建てられた白いガゼボに、少人数が座れる白い円形のテーブルと籐製のソファが設置された見晴らしの良い場所だった。半分は植え込みで囲われ、もう半分は海しか見えないようになっていて、静かに海を眺めたい時には絶好の場所のようだ。


 香月はそのガゼボから、ぐるりとあたりを見回す。水平線を見渡すと、遠くの方で鴎が悠々と飛んでいくのが見えた。岩場に打ち寄せる波音の合間に時折聞こえるのは、ビーチでリゾートを楽しむ人々の明るい嬌声だろう。この場所は海岸の岩場をうまく利用して作られており、少し小高い所にあるため眺めは良いが、ここから海に入るのは難しそうだった。


 「この場所は元々、このホテルの所有地ではなかったのですか?」


 「はい。長らく別荘が建っておりましたが、持ち主が亡くなった後、親族が土地ごと売却したためこちらで買い取りました」


 聞くとその別荘の持ち主は、そこそこ名のある実業家だった。この辺りの地域は景観の良さと温暖な気候で昔から別荘地として栄えていた場所で、他にも近くにいくつか名のある企業の一族の別荘があるらしい。

 

 「実は、この場所には元々海を眺めるための小さな東屋が建っておりまして、そのアイデアをそのまま採用いたしました」


 「では、以前の別荘の名残を残すのはこの場所だけということですか…」


 呟くように言ってしばらく眩しそうに海を眺めた香月は、再び椎名に顔を向けた。


 「大体のことは把握できました。僕はもう少しこの辺りを見て回りたいと思います。案内はもういいですから、椎名さんは仕事に戻ってください」


 「…お気遣いありがとうございます。ではお言葉に甘えてそうさせていただきますが…何かありましたら必ず近くのスタッフにお声がけください」


 恐縮しつつ香月の申し出を有難く受け入れた支配人は、一礼をして足早に本館の方へ戻っていった。本来ならば彼は雑務に追われ、香月に構えるほどの余裕などないはずだ。


 

 支配人を見送った後、香月はふと波の音に誘われ、ソファの端に座り頬杖をついて目の前に広がる海を眺める。


 普段見慣れている海よりも色が薄いような気がするが、あくまで気がするというだけで、屋敷から見える海の色を覚えるほどそれを眺めた記憶はない。


 あの屋敷に住むようになってからも、こんな風に海を眺めて過ごすことはなかったことを思い出し、香月は微かに自嘲するような笑みを浮かべる。



 いつも心にこびり付いている焦燥感。まるで迷宮に迷い込んだような閉塞感。すでに摩耗した空っぽの入れ物を、そんなもので満たしていないと安心できない。



 ―――隙間があれば、余計なものが入り込む。だから隙間を埋めるように動け。


 

 思い出したくもない声が頭を過り、軽く頭を振ってそれを打ち消す。


 従うつもりはなくとも、そうせざるを得なかった自分は、一部の隙間も作らないよういつも絶え間なく動き続けることでしか自分を保てなかった。


 疲弊には目を瞑り、ただ動き続ける。それが自分の役割だと言い聞かせて。


 今もそれを自覚しているはずなのに、ふと、こんな風に耳に響く波音を聞いていると、普段は意識しないようにしていた何かが、まるで覆いかぶさるように自分の動きを止めようとしてくる。


 それが囁く誘惑に抗えそうになくて、香月はあらゆるものすべてを飲み込んで消え去ってくれるような波の音に耳を傾けながら、きらきらと光る波間をぼんやりと眺めていた。



 

 しばらくそうしていると、ふいにすぐ隣で何かの気配がした。


 香月はそれに気付くと、そっと視線を隣に移す。


 するとそこには、赤い着物を着て黒髪を短く切りそろえた可憐な少女が膝を抱えて座っていた。少女は香月と同じ様に、ぼんやりした様子で光る波間を眺めている。


 (―――気を抜きすぎたな…)


 隙を作った自分に内心溜息を吐くと、香月は意識を切り替えて横目で少女の動向を注意深く観察し始めた。


 その霊体は特に邪悪な気配もなく、一見して無害そうに見える。ただそこにいるだけの地縛霊のようなものだろうか。こちらに注意が向いているわけではなさそうなので、今のうちに香月はそのまま気配を消してこの場から立ち去ろうと腰を上げかけた。


 その時、鈴を転がすような声が聞こえた。


 「…警戒せんでも、何もせんよ」


 「!!」


 少女の霊体はそう言って、横目で香月の方を見る。


 「…お主、わしが見えるということは、わしを如何こうしようとやってきた口じゃな?」


 明らかに自分に向けて話しかけてきた霊体を前に、香月は表には出さずとも内心酷く驚いた。これまで幾度となく霊と対峙してきたが、霊体から話しかけられたことなど殆どなかったからだ。


 これまで依頼で接してきた霊はそのほとんどが自らが作った闇の住人だったため、こちらに興味もなく、まともな会話も成立しない狂人のような存在ばかりだった。そんな存在をただ必要に応じて排除するだけだった香月は、そう言えば一つだけ霊体との会話が成立した事例があったことを思い出す。


 あれは、最近出会い、様々な事情から手を差し伸べることになった少女に取り憑いていた霊だった。それまで霊とは排除するものとしてきた香月にとって、初めて「説得」という方法で霊を世間で言うところの「成仏」をさせた経験だった。


 無論、香月はあの時も排除する方向で解決を考えていた。しかし、その間際になって少女が自分に取り憑いた霊の境遇を憐れみ、無謀にも説得という解決方法に挑んだのだ。


 結果的に霊は成仏できたようだが、いつもその方法で解決できるわけではない。この世に留まる霊体は、差はあれどみな陰の気を抱えている。でなければとっくに成仏できているはずで、未だに残る思念はみな「未練」という悪感情を抱えているのだ。それが大きければ大きいほど悪霊に成長していってしまう。


 この少女の霊体も、無害そうに見えて身の内に何を抱えているのかわからない。わからない以上、下手に刺激しないほうが身のためだ。この少女は霊体といえど理性が備わっているように思えるが、発言次第では豹変する可能性もある。この霊体の正体がはっきりしない以上、下手な発言はできない。


 香月は動揺を抑えるよう静かに息を吐くと、改めて少女を見据えた。


 「…いえ、どうでしょう?今のところここでの被害は夜の泣き声くらいで、あなたを如何こうしてほしいといった訴えは来ていません。―――ただ、もし原因があなたなら、場所も場所ですし、このホテルにとってはあまり好ましくはないでしょうね」


 この場所はその景観を売りにしているようだし、宿泊した恋人同士なり夫婦なりが好んで利用しそうな場所だ。そんな場所で女の泣き声が聞こえたら、折角の雰囲気も台無しになるだろう。依頼したホテル側としては、是非とも止めてもらいたいに違いない。


 「…わしも時と場合は弁えておるつもりじゃ。客の前で粗相はせん。―――じゃが、いい加減、未練たらしくていかんな」


 言葉の端々に自嘲を織り交ぜて溜息を吐く彼女は、その幼い顔を老成した笑みの形に歪ませる。


 「…未練というと、この場所と何か関係が?」


 香月が推測をそのまま言葉にすると、彼女はチラリと香月の方を見た後、また海の方に視線を戻した。


 「まぁな…」


 そう言ったきり、少女は黙ってしまった。


 彼女の黒い双眸が、波間に光る陽光を反射して揺らめいている。じっと海を見つめるその姿が、記憶の残滓に重なったような気がして、香月は無意識に眉間に皺を寄せた。



 同時に、同じ瞳をしていた少女のことを思い出す。


 彼女は夜の孤独にひとり耐え続け、帰るはずのない父親の面影を拠り所にして生きていた。


 彼女は香月のおかげで孤独の闇から立ち直ることができたと言っていたが、自分から見たら彼女はまだその深淵に立っている様に見える。何か切っ掛けさえあればすぐに足元が崩れ、再びその闇に堕ちて行ってしまうような、そんな危うさがあった。


 それでもギリギリのところで堕ちて行かなかったのは、自力で立ち直る力を持っていたからだ。香月が何かしたと言うなら偶然その切っ掛けを与えたに過ぎない。


 本来の明るさを取り戻しつつある今の彼女の姿を見ていると、もう二度とあの雨の中で見た彼女の姿に戻ってほしくないと感じる。


 それは願いというには烏滸がましくて、遠すぎる、まるで夢見るような思いだった。


 あの時の彼女を見た自分は、戸惑いながらもつい彼女に手を伸ばしてしまった。こんな思いは今まで抱いたことがなかった。



 ―――この胸に降る雨の様な感情の名前は?



 そんなことを考えていたら、いつの間にか隣にいたはずの少女が興味深そうにこちらを見ていた。


 「…お主、何だかわしに似ておるな。それに、なかなかいい男じゃないか」


 「……それはどうも」


 いきなりの発言に虚を突かれ、よくわからないまま返事をすると、少女はその様子にふふふっと楽しそうに笑う。


 その声が辺りに響くように聞こえたかと思うと、少女の姿はいつの間にか消えてどこにも見当たらなくなっていた。


 岩を叩く波の音と共に、再び静寂が訪れる。霊の気配が完全に消えたことを確認した香月は、気を抜くように軽く息を吐くと、再び思案に耽るように頬杖をついた。


 「未練ね…」


 そう呟き、彼はその眼差しを午後の日差しに煌めく緑青の海に向けたのだった。












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