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ホテルの怪異




 


 「ようこそおいで下さいました」




 到着したホテルのラウンジは、南国を思わせる観葉植物がそこかしこに配置され、それでいて全体的に落ち着いた色合いに統一された空間だった。


 一面ガラス張りの壁からは、ココスヤシの間から盛夏の太陽を照り返して煌めく薄い青緑の太平洋が一望でき、非日常を求めてやってくる利用客をまるで南国にいるよう錯覚させるような演出がなされている。


 そんなラウンジに他の宿泊客の姿は見当たらず、チェックインの時間帯よりも早く到着した香月たちはホテルスタッフたちの出迎えを受けた。彼らが一列に並んで一斉に礼をすると、その中央に立っていたスーツ姿の中年の男性が、一歩前に出て再び頭を下げる。


 「香月様。わざわざここまで足をお運びいただき、誠にありがとうございます。わたくしは総支配人を務めております椎名と申します。――この度は、糸様より当ホテルからの依頼を受けてくださったとのことで、スタッフ一同心より感謝申し上げます」


 香月のことをどのように聞いているのかは知らないが、ひどく恐縮している様子の支配人に、内心溜息を吐いて香月は彼の挨拶をサラリと流した。


 「そんな大袈裟な挨拶はいりませんよ。僕は今回仕事の依頼でやってきただけですから。それより早速ですが、問題の部屋を見せてくれませんか?」


 「畏まりました。その前に、一度お泊りになるお部屋にご案内させていただいてもよろしいでしょうか?その後すぐに例の部屋へご案内させていただきます」


 支配人は「こちらへ」と手で方向を示して香月たちを先導し、エレベーターホールへと向かう。他のスタッフはそれぞれ香月たちの荷物を持ったり車のキーを預かったりと、役割を果たすべく黙って動き出した。



 到着したエレベーターに一同が乗り込むと、香月は時間が惜しいとばかりに早速椎名に質問を向ける。


 「椎名さん。その問題の部屋で怪現象が起こり始めたのは、いつ頃からかわかりますか?」


 「いえ…誠に恥ずかしながら、この度の騒動が起こるまでそのような報告は一度も聞いたことがございませんでしたので、正確なことは分からず…。こちらとしても正に寝耳に水の事態でして…。当ホテルはご利用いただいたお客様にアンケートを取らせていただいて品質改善に努めておりますが、そういった訴えは今までありませんでした。…しかし、このような怪現象は証拠も残りませんので、お客様が伝えにくかったというのもあるかもしれません」


 そう言うと支配人はポケットからハンカチを取り出し、広くなった額の汗を拭った。見ると心なしか顔色が悪く、疲労の色も濃く見える。恐らく支配人という立場から、今回この騒動の責任を問われているのだろう。


 「そうですか。…では他に、別のことで何か気になることはありますか?」


 「他、でございますか?」


 「はい。この部屋の怪現象以外で何か不思議な事があったとか、それこそスタッフの噂話でも良いのですが」


 「いえ…そう言った話も――」


 「あの…よろしいでしょうか」


 そう言って遠慮がちに声を上げたのは、ポーターの男性スタッフだ。名札には『林道』とある。香月が彼に頷き先を促すと、彼は支配人の方をチラリと窺ってから遠慮がちに話し始めた。


 「…支配人に伝えるほどではないと判断して、みな報告していなかったのですが…新館の方のスタッフから、時々、夜中に屋外で変な声が聞こえるという話はありました」


 「変な声、というのは?」


 「私が聞いた限りでは、女性が泣いているような声だったと…」


 「女性の…。新館というのは?」


 香月の視線を受けて支配人が説明を始める。


 「新館というのは、去年新しくオープンしたエリアです。隣接した土地を新たに開発して、コテージ風の客室を作りました。南国風のガーデンの中に点在するコテージからは当ホテルのプライベートビーチへ直接アクセスできるので、今非常に人気のある部屋となっております」


 「そうですか…じゃあ一応、そこも後で見せてもらっても?」


 「もちろんでございます。ただ、夕方からチェックインのお客様が押し寄せますので、できればそれより早い時間のほうがゆっくりご案内できるかと」


 「それもそうですね。では問題の部屋を見た後、すぐ案内して下さい。あと、できればその声を聞いたというスタッフにも話を聞きたいのですが」


 「かしこまりました。探してまいります」


 そんなやり取りの間に、エレベーターは目的の階にたどり着いた。


 扉が開くと、そこは臙脂色のカーペットが敷かれた広々としたホールになっていた。そのホールの先にはフロントがあり、その中で黒いスーツ姿の女性スタッフが香月たちに向けて頭を下げる。


 ここはラグジュアリーフロア専用のフロントのようで、一定のランク以上の部屋を利用する客のみが入ることができる場所となっている。香月が調査で訪れることになり、ホテル側が急遽宿泊用の部屋を用意してくれたようだが、繁盛期であるにも関わらずある程度グレードの高い部屋を用意できたらしい。


 堀越がフロントで必要なサインをしている間、香月は椎名の案内で先に用意された部屋へ通される。香月に用意された部屋はどうやら最上級のスイートルームらしく、海に面したリビングルームは一面ガラス張りで、青く霞む水平線が見渡せた。


 その他の寝室やバスルームなど、支配人が自らこの部屋とホテルの施設の説明を始めたが、香月はそれを適当に聞き流し、堀越に後を任せるといよいよ問題の部屋へと足を向けた。


 



 ***





 「こちらでございます」


 その部屋は一般的にエグゼクティブルームと呼ばれる上位ランクの部屋で、オーシャンビューの大きな窓から見える景色が売りの部屋だった。


 窓辺に高級感のあるモダンなソファとテーブルが置かれ、壁際にはクイーンサイズのベッドが一つ備わっている。太平洋を一望できる景色以外は、ある程度のランクのホテルであればどこにでもあるような、特に変わった様子のない客室だった。


 香月は足を踏み入れ、窓辺までゆっくりとした足取りで歩いていく。窓の外を覗くと、そこには真夏の太陽を照り返して輝く青緑の海と、白い砂浜を見下ろすことができた。ここから見える範囲はホテルのプライベートビーチのようで、海水浴を楽しむ客の姿も見える。


 目線を左に移すと、海岸にそって南国の植物が茂る陸地に建物の屋根が点在する場所が見える。どうやらこちらが新館と呼ばれるコテージエリアのようだ。


 「…この部屋で、以前に何か事件があったということはありますか?」


 ドア付近に佇んでいた椎名に尋ねると、彼は少し考える素振りを見せてから首を横に振った。


 「私の記憶している限りではございません。当ホテルは約百年前より小さな旅館から始まり今に至りますが、御覧の通り今は建物も改築されております。建て直した後のことであれば、この部屋で事故や事件などは起きてないと記憶しております。…しかし、それ以前のこととなると、当時の古い記録は帳簿以外残っておりませんので、私には判りかねます」

 

 「…そうですか。では、改めてこの部屋に泊まった客からの証言とはどういった内容だったのか、教えてください」


 「はい。そのお客様は一昨年の春先に初めてこの部屋をご利用になられたのですが、その時に夜お休み中に、俗に言う『金縛り』という状態になり、どこからか子供の笑い声が聞こえてきたということでした。その時はお客様も夢だとお考えになったそうですが、昨年も今年も同じ時期に同じ部屋をご利用になって、同じ現象が起きたため、私共に訴えられたという次第です」


 「その客以外で同じ現象にあったという人は?」


 「いえ…私もスタッフの何人かも試しにその部屋に泊まってみたのですが、特に変わったこともなく…というよりも、お恥ずかしい話ですが、そんな話を聞いてしまえば熟睡できるわけもなく、良く眠れないまま朝を迎えてしまったというのが本当のところです」


 確かに、そんな異常現象が報告されている部屋で熟睡できるのは、よほど神経が図太い人間かもしれない。


 「では、その現象が起こる特定の時期はありますか?」


 「…それもよく分かっておりません。そのお客様は今まで春先にご利用になられていますが、他のお客様から正式に訴えがあったわけではありませんので…」


 支配人はまた額の汗をハンカチで拭った。相変わらず顔色の優れない彼は、この騒動が心霊現象よりも恐ろしい事態を引き起こす可能性に胃に穴が開く思いをしているのだろう。


 「…ネット上でこの噂が広まったのは、その客が原因ですか?」


 「…確証はありませんが、おそらく。そのお客様はルポライターをされていまして、仕事上、日本各地の観光地や宿泊ホテルなどを頻繁に訪れているようです。当ホテルでのことは名前を伏せた状態でSNSに発信されたようなのですが、他にも同じような経験をしたという方々の話が集まりまして、その結果、当ホテルが特定されたようなのです」


 客商売では悪評が一番痛手となる。ましてやこのホテルはそれなりに名前が通っているだけに、こういった噂が尾びれ背びれをつけて広がりやすいのだろう。今の時点では下火くらいしか広がっていないとしても、これを放置すればやがてこのホテルの経営に影響が出始める可能性は大いにある。


 「ということは、もしかしたらその客以外にも、同じ経験をした人がいる可能性があるわけですね…。その客は当時一人でこの部屋を利用したんですか?」


 「はい。三度ともお一人のご利用でした。この部屋はシングルなので、今までは主に男性のお客様がご利用されることが多かったように思います」


 「ということは、不特定多数の被害者も、男性である可能性が高いということですね」


 「そうかもしれません」


 その言葉に、香月は腕を組んだまま黙り込む。ネット上の書き込みも昨夜のうちに調べてみたが、書かれた内容は多少の差異はあれどみな同じようなもので、寝ている間に金縛りのような状態になって、どこからか子どもの笑い声が聞こえてきたというものだった。


 その後、宿泊客の特徴やその時の天候など、椎名からできる限りの情報を聞き出した香月は、しばし考え込むように窓の外を見つめる。


 判っている発生条件が、この部屋に男性一人での宿泊のみとなると、やれる事は一つしかない。そう結論付けた彼は、椎名に言った。


 「試しに今日から僕がこの部屋に泊まってみましょう。それから、このあとすぐ新館の方も見せてください」











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