最後の憑依
「それを見ちゃ駄目だ!」
ロバートの叫びも虚しく、パラケルススより浮かび現れた黒い悪魔・レギオンは、その邪悪な触手を神酒に伸ばし、彼女の体を闇で包み込んでいた。
このままでは彼女の精神が引き裂かれてしまう。
咄嗟に思ったロバートだったが、まだ獣に押し潰されたダメージが抜けず、彼は動けないままでいた。
レギオンに乗り移られた神酒の瞳は次第に光を失い、表情は虚ろに、そして体は硬直していくように彼には見えていたが、その後すぐ、ロバートの目に奇妙な光景が飛び込んできた。
レギオンの黒い体が、まるで霧が晴れるように存在感を弱め、一度神酒の体に潜り込んでいった禍々しい流動物が、浄化されるかのように消えていったのだ。
「まさか・・。あの少女が?」
ロバートは我が目を疑った。
彼は神父であるが故に、悪魔祓いの難しさや恐ろしさをよく知っている。
本来ならエクソシストは、修行や鍛錬により悪魔の特性をよく理解し、何度も祈りを繰り返し、長い時間を掛けて徐々に体内より悪魔を追い出していくのだ。
だが、ロバートの前に立っているのは、どこにでもいる一人の小学生の少女に過ぎない。とてもではないが、悪魔を、しかもこんな短時間で打ち破れるはずはない。
しかし、彼女はそれをやり遂げていた。
邪悪に歪んだ黒い霧が晴れた時、そこにいたのは、ほんの数分前までにいた、不安と後悔を胸に抱いたか弱い女の子ではなかった。瞳の奥に生きる力を取り戻し、凛とした表情で自分の力で立ち上がる神酒の姿がそこにあったのである。
しかし、まだ完全にレギオンの脅威が消え去ったわけでは無かった。
悪魔を形成していた悪霊のほとんどは、光に掻き消され消滅していたが、まだそのいくつかの破片が残っていたのである。
残った僅かな破片は、闇の中で胎動し、神酒もロバートも気付かない空間の片隅で再び活動を始める。欲を満たし、また邪悪な行いを続けるために、新たなレギオンを形成したのである。
それは前のものに比べれば姿は小さく、力も非常に弱いものだった。しかし一体の生き物に寄生し、それを操るにはまだ充分な力を持っていたのである。
レギオンには新たなエネルギーが生まれていた。
それは恨みの力。
神酒に危うく消滅させられそうになった恨みが、悪魔に新たな活力を与えていたのだ。
この娘を許すまじ。
レギオンは新たな宿主を探した。
もうこの神酒という少女に取り憑くことはできない。
獣は力を失っている。
神父に取り憑くにはまだ力が足りない。それならば・・・。
レギオンはにんまりと笑った。
あれならいい。
あの娘には、我々の望むものがまだ残っている・・・。
「神酒さん。大丈夫・・なのか?」
彼に気付いた神酒は、一度ロバートの方を見てニコリと笑ったが、すぐにまた正面を向き、静かに前を見据えた。
2人にはまだベルという脅威が残っている。
ベルはパラケルススが倒れたことにも動じず、未だ表情を崩さずに、冷淡な眼差しで二人を見つめていて、彼女の存在感は相変わらず健在だった。
ベルから放たれる絶えることのない射すような殺気は、先程よりも鋭さをさらに増し、威圧感は完全に空間を支配していたのである。
それぞれがお互いを強く意識し、2つのグループの間に牽制の見えない火花が飛び散っている時に、もう一つの脅威が密かにベルのもとに足を忍ばせていた。
そしてそれ3人が注意を向けていた空間の外から、突然ベルの頭上に舞い降りていた。
レギオンだった。
生き残ったいくつかの怨念が再び悪魔を形成し、威力を取り戻そうと一気にベルの体に乗り移ってしまったのだ。
ロバートの目前で、彼女は体を大きく震わせた。そしてまるで体中に電気が走るように痙攣し、天を仰ぐように叫び声を上げると、膝からその場に崩れ落ちてしまったのだ。
まさに瞬間的な出来事だった。死に掛けたレギオンは、ベルへの寄生に成功したのだ。
やがて金髪の小さな少女は、手でよろめく体を支え、苦しそうに呼吸をしながらその場に立ち上がったが、ロバートはその場面を一生忘れることはできないだろう。そこには、あの整った顔立ちのかわいらしい少女とは、全く印象を別にする人物が屹立していたからである。
原型は確かにベルである。だが、何と表現すればいいのだろうか。
色白だが張りのあった肌は、すっかりとその面影を失っていた。代わりに多くのシワが顔を覆い、皮膚の所々は腐れ、肉が剥げ落ちている。目からは黒い瞳が消え、赤い血管が遠くからでも見えるほどに浮き出ていた。綺麗だった金髪からは水分が失せだらしなく乾き、あの果実のように滑らかだった指先には黒い斑点が浮かび、まるではさみの刃先のような鋭い爪が伸びていた。
あの美しかったベルが、まるでゾンビのような姿に変わり果て、唖然として彼女を見守る二人の前に立っていたのだ。
ベルは苦しそうにその場に立ち上がると、両手を広げ、神酒を迎え入れるかのように彼女に声をかけた。
「ミキ・・。おいで・・・」
その声もまた、以前にロバートが聞いた通りの良い響きのある彼女の声とは違っていた。今のベルの声は酷くしわがれ、まるで呻くような響きで神酒に話しかけていたのだ。
「ミキさ・・ん・・。ここに来て・・・。ここに来て、一度だけ・・私を抱きしめて・・・。そうしたら、あなたを・・、ここから逃がして・・あげる・・・」
声はゆっくりだったが、殺気は消えてはいなかった。
「神父も・・・逃がしてあげる・・。だから・お願い・・。ここに来て・・・」
ロバートにとって、このレギオンの企みは少々安易であると思われた。
これはベルの、いや、レギオンの企みだ。奴は彼女が遠くに逃げてしまう前に、なんとか捕まえて殺してしまおうと考えているに違いない。この程度の作戦なら、神酒はそれにすぐに気付いて、きっとレギオンの誘いに乗ることはないだろうと。
しかし、展開はロバートの予想とは大きく違う方向へと進んでいた。
神酒が、ベルの居る方へと歩き出していたのだ。
「ミキさん!やめろ!」
ロバートは大声で叫んだ。だが、神酒が歩みを止める様子はない。
「やめるんだ!彼女は君を殺すつもりでいるんだぞ!」
ベルがニヤリと笑みを浮かべた。
しかしロバートの必死の叫びも虚しく、神酒は一歩一歩、ベルの方へと歩みを進めていた。




