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ルルイエの封印

 ロバートがようやく獣の下から這い出してきた時、初めて神酒の頭上に渦巻く黒い雲のような異質な物体を確認できた。

 ただの雲や煙の類ではない。それはまるで意思を持つかのように奇妙にのたうつが、決して分散することがなく、常にその場に留まり続けている。


 雲の中に人の意思を感じる・・。

 急にその雲の中から異質な意思が自分に流れ込んできたことに気付いたロバートは、意識的に自分の感情を理性で遮断した。

 彼には判ったことがあった。ロバートが感情を断ち切った時、少しだけ彼の中に雲からの意思が入り込んでいたが、それは尋常なものではなかったのである。その中には、幾千幾万人の恨みや無念の想いを含む、数え切れないほどの不浄の魂が潜んでいることに気付いたのだ。


「レギオン・・?」


 レギオンとは悪魔の一種である。

 マルコの福音書第五章に初めて姿を見せる悪霊の集合体で、レギオンという言葉それ自体に群れという意味がある。


 ロバートが対峙していたそれは、まさしくいくつもの怨念が折り重なった、悪魔と呼ぶにふさわしいレギオンの存在だったのだ。

 付近にレギオンの声が響く。その声色には老若男女に関わらず様々なものがあったが、一つとして耳に心地好く届くものはなかった。

 満たされぬ欲。

 晴れぬ不満。

 物欲と執着。

 独りよがり。


「こいつは・・、こんなとんでもないものを宿していたのか・・?」


 ロバートは、倒れて動かなくなった巨大な獣を見つめた。

 こんなとんでもないものを・・。

 何万年も自分独りで・・・。



 もう何億年も前の話。

 地球という美しく青い星へ、宇宙の創造に関わった旧き神々は、一頭の僕たる獣を遣わした。

 彼の使命は星の浄化。


 南緯47度09分 西経126度43分。かつての宇宙を2分にした戦いの果てに、ルルイエに封印したクトゥルーを初めとする旧支配者たちの復活を妨げるため、封印の力を弱める星の住人の邪心を取り払うのがその目的だった。

 星から生まれる生命の怨念を喰い、体内でそれを浄化をしていくのである。

 最初はそれで上手くいっていた。

 地球に現れた生命は、弱肉強食の運命に従い、迷うことなく己の運命を全うしていった。


 だが、地上に人間が現れてから、その様相は一変していく。


 地球の支配者として増え続けるそれは、次第に我欲に溺れていく。


 強欲。驕り。怠惰。虚勢。傲慢。嫉妬。


 喰っても喰ってもなお減らぬ人の怨念。


 いつしか獣の体内には、彼だけでは浄化しきれない、数多くの不浄の魂が宿るようになった。


 不浄は毒。


 やがてそれらは獣の感覚を狂わせ、次第に体を蝕み始める。


 黒く美しかった毛は抜け落ち、盛り上がった筋肉は腐り始めた。


 本来の目的はただの本能に変わり、彼はただ怨念の源を喰らうのみ。


 獣は自分が神の僕であることを、いつしか忘れていってしまった。



 まるで抒情詩のように流れる一遍の情景。謎の声の主が最後にロバートを連れ出した時間旅行は、ほんの一瞬の間の出来事だった。そして一瞬の間ではあったが、それは今までのどれよりも永い、彼が神父に伝えたかったどれよりも深い真意を伝えるものだったのである。


 ロバートが神酒の異変に気付いた。彼女ハ蠢くレギオンをじっと見つめながら、そこに佇むのみで全く動こうとせず、まるで彼女の意思が何者かに奪い取られたかの印象を受ける。

 彼に一抹の不安が走った。

 神酒の目は虚ろで瞳孔が開いたように視線が定まらず、表情から意識を読み取ることができない。

 彼の不安は的中していた。パラケルススから離れたレギオンは、次に乗り移る相手を探しているのだ。


「それを見ちゃ駄目だ!」 

 

 ロバートは叫んだが、その言葉が彼女に届いた様子はない。

 彼は急いで彼女に駆け寄ろうとしたが、足が思うように動かなかった。まだパラケルススに潰された時のダメージが残っているらしく、強い痛みが彼の脚部を走り抜ける。


 やがてレギオンの黒く歪んだ魂は次第に大きく膨らんでいき、黒い触手を神酒の小さな体に伸ばすと、あっという間に彼女をその闇の中に包み込んでしまったのである。

 そう。レギオンは、次の宿主に神酒を選んだのだった。

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