毒気の向こう側
豪快な笑い声、肉の焼ける香ばしい煙、そして重なり合う木樽のジョッキ。宴の狂乱と熱気の真ん中で、テリエスはふと遠い目をして杯を傾けた。
(おっさん……俺、仲間ができたよ)
胸の奥で静かに呟く。視線の先には、目を回して横たわるシェリルや、最後に残されたパンツを引きちぎられて呆れながらも笑みを浮かべるルーエンたちの姿があった。
◇
記憶の向こうのアイル村。夕暮れ時の公園には、いつも子供たちが集まっていた。
中心にいたのは、最近この村に住み着いたという一人の老バーバリアンだった。いつも昼から酒を飲んで酔っ払っていて、背は高いが、バーバリアンにしては驚くほど筋肉がついておらず、村のどの大人よりも弱そうに見える。しかし、右腕の袖口を風にはためかせながら語る彼の言葉に、子供たちは夢中だった。
「よし、今日は『剛炎竜ヴァルフレア』のダンジョンを攻略した時の話をしよう! あれは、とんでもなく暑い夏のことだった……! なに? 今日の村も十分に暑いだと? バカ言え、ヴァルフレアの吐く息に比べりゃあ、今日の暑さなんて氷の精霊の吐息みたいなもんだ!」
おっさんが身振り手振りを交えて語り出す。
「ヴァルフレアってのはな、2級ダンジョン『赤蓮の洞窟』の最奥に鎮座する、全身が溶岩でできたみてえな巨大なドラゴンだ! 大木よりぶっとい両腕を振り回し、口からは山を丸ごと焼き払うような熱線を吐き出してくる! 誰もが恐怖で足がすくむ中、当時若くて生意気だったこの俺は、大剣一本で真っ向から突っ込んでいったのさ!」
「うおおっ! おっさん、一人で突っ込んだのか!?」
子供たちが身を乗り出す。おっさんは白々しく胸を張った。
「当たり前よ! 踏みつけようとするヴァルフレアの巨大な足を紙一重でかわし、その背中を駆け登って頭上へ跳んだ! 奴が俺を焼き尽くそうと、ガバッと大口を開けたその瞬間だ——俺は、一緒に潜っていたドワーフがダンジョンにまで大事に持ち込んでいた酒樽をマジックバッグから取り出し、そのままドラゴンの喉奥にぶち込んでやったのさ!」
「酒樽を!?」
「そうだ! ドワーフの極上酒はアルコール度数が高すぎて火気厳禁! ドラゴンの体内で引火した酒樽が大爆発を起こし、ヴァルフレアは吐くはずだった炎を腹の中で爆発させて『ごばぁっ!?』と泡を吹いて倒れたって寸法よ! 怯んだヴァルフレアの首を俺様の大剣で一刀両断ってな!!! ……まぁ、討伐後にドワーフの奴から『ワシの命の次に大切な酒を勝手に使いおって!』ってボロボロ泣きながら文句を言われたがね!」
ガハハハ! と愉快そうに笑うおっさんに、子供たちの歓声が弾ける。
「討伐して街へ戻ると、もう大盛り上がりよ! 冒険者ギルドから酒場まで総出で大宴会さ! 500人はいたね! 酒場にいる奴ら全員に酒を奢って一晩中大騒ぎ! ……まぁ結局のところ、苦労して手に入れた報酬は、その日の飲み代と、道中で命が危なかった人間の聖騎士に使った『上級エリクサー』の代金で綺麗さっぱり吹っ飛んじまったんだがな!」
おっさんは自慢げに言ったが、怪我をしてすぐなら上級エリクサーを使えば自分の失った右腕だって治せたはずだった。パーティの仲間のために自分のエリクサーを使ってしまい、腕が治らなくなった話を、おっさんはいつもどこか誇らしげに、嬉しそうに話すのだった。
「とまぁ、お前らも勇敢なる戦士になれ! 仲間を作れ! 同族だけじゃないぞ。人間、ドワーフ、獣人……まあ、あの耳の長いエルフでももちろんいい!」
おっさんは真面目な顔になり、夕暮れ空を見上げながら子供たちに言い聞かせた。
「バーバリアンが勇敢な戦士なのは確かだ。だがな、他種族にだって勇敢な戦士はたくさんいる。成人して王都に出たら、信頼できる仲間を作るんだ。……一生もんの、な」
一瞬真面目な顔をしていたおっさんはいつもの砕けた表情に戻り、左手に持つ麦酒の入ったジョッキをグイッと飲み干した。
幼いテリエスは、目を輝かせながらその言葉を聞いていた。
「自分は片腕を失って引退したが、昔は高い等級の冒険者で様々なダンジョンを攻略していた。引退と同時に名前を捨てたから『おっさん』と呼んでほしい」とおっさんは言う。
おっさんの語る話は、五歳のテリエスには少し難しかった。
ドラゴンの弱点や作戦の立て方、酒場での盛り上げ方や、王都でダンジョンに入るための細かいルールなんて言われても、さっぱりだ。
それでも、テリエスはおっさんの話が大好きだった。
筋肉と力だけがすべてのこの村で、おっさんの言葉だけが、まだ見ぬ広い世界への扉を開いてくれている気がしていたのだった。
◇
しかし、そんな夢のような時間は永遠には続かなかった。
テリエスが九歳になる頃には、かつて群がっていた子供たちの姿は公園から消えていた。
成長するにつれて、村の少年たちは身体を鍛え、獲物を狩ることに夢中になっていく。バーバリアンにとって価値があるのは「目に見える筋肉と力」だけだ。おっさんの語る戦術や知識は、彼らには難解すぎて理解すらできず、いつしか「ひ弱な嘘つきバーバリアンの絵空事」として切り捨てられていった。
だが、テリエスだけはおっさんのもとへ通い続けた。
テリエス自身もまた、村の中で強い疎外感を抱えていた。同世代のバーバリアンに比べて背が低く、いくら肉を食っても筋肉がつきにくい。それ以上に、周りとの「ズレ」を生んでいたのは思考の違いだった。
なぜ獲物は冬になると減るのか。なぜこの角度で斧を振ると腕を痛めるのか。
ただ命じられるまま身体を動かすのではなく、「理屈」を知りたがるテリエスは、巨大さと力こそが正義の村で、静かに浮いていた。いじめられるわけではない。しかし、どこへ行っても「変わったやつだ」という好奇と困惑の視線がつきまとった。
そんなテリエスの唯一の居場所が、村の片隅にある建物だった。
文字を読む習慣すらないバーバリアンの村に、なぜかぽつんと存在する立派な『図書館』。誰も立ち寄らない埃っぽいその場所で、テリエスはおっさんと並んで本を開いた。おっさんは左手で器用にペンを操り、テリエスに文字を、そして世界の仕組みを教えてくれた。
「おっさん……僕、やっぱりおかしいのかな」
膝を抱え、ぽつりと漏らしたテリエスの声は小さかった。
「周りのみんなが、すごく馬鹿に見えちゃう時があるんだ。僕みたいに理由を考えないで、ただ殴り合って、筋肉の大きさばかり競い合って……。でも、僕だって本当はみんなと仲良くしたい。仲間になりたいのに、僕だけ体が小さくて、頭の中も違ってて……」
自分の中に芽生えた見下すような感情への罪悪感と、輪に入れない寂しさ。複雑な思いを吐露する少年の頭に、おっさんは大きな左手をそっと置いた。
「テリエス。バーバリアンってのはな、そういうもんなんだよ」
おっさんは優しく、包み込むような声で語りかけた。
「あいつらは馬鹿なんじゃない。体がでかくて、力があって、深く考えずに立ち向かえる……それ自体が、この過酷な世界を生き抜くための立派な『強さ』なんだ。筋肉と理屈、どっちが上なんてことはない。お前が知識を大事にするように、あいつらが力強さを大切にする文化もちゃんと尊重してやらなきゃいかん」
そして、おっさんは豪快に肩を揺らした。
「それにだ、テリエス。『僕』なんて弱気な一人称を使ってるから余計に遠く感じるのさ。今日からお前も『俺』と言いな。そしてな……何か困ったことや気まずいことがあったら、とにかく『ガハハ!』と笑え!」
おっさんは腰に手を当て、腹から声を響かせた。
「ガハハハハ! ほら見ろ! バーバリアンなんてな、力強く笑っとけばだいたいのことは解決する! 難しい理屈は心の中に隠しておいて、外では胸を張って『俺は勇敢な戦士だ! ガハハハ!』と笑うんだ。そうすれば、お前は立派に奴らの『仲間』になれるさ!」
「が、ガハハ……? 僕……じゃなくて、俺も、そうすれば……」
ぎこちなく真似をして笑おうとするテリエスを見て、おっさんは嬉しそうに目尻を下げた。
「そうだ、いいぞテリエス! その笑い方さえ忘れなきゃ、お前はどこに行ったって大丈夫だ! ガーッハッハッハ!」
◇
いつものように図書館で勉強をしていた時のことだ。
読んだ本を真似してマナを巡らせていたテリエスの指先に、ポッと小さな炎が灯った。
胸を躍らせたテリエスは走った。図書館2階の個室へと飛び込み、机に向かうおっさんの前で、手のひらに咲かせた小さな火を掲げてみせた。
「おっさん! 見ろよ、魔法だ! 俺、魔法が使えたんだ!」
一瞬、おっさんの表情がフッと固まった。息を飲み、目を見開く。しかしすぐにおっさんは優しく笑い、テリエスの頭を包み込むように撫でてくれた。
「……すごいぞ、テリエス。お前は大したものだな」
だが、次の瞬間、おっさんの眼差しに深刻な陰りが宿る。
「だがな、絶対に他の奴にバレちゃいけない。バーバリアンが魔法を使うと知れたら、大変なことになる」
おっさんの真剣すぎるトーンに、テリエスは息を呑んで深く頷いた。その日、おっさんが言った「絶対に隠せ」という言葉の意味を、テリエスはまだ半分も理解できていなかった。
◇
それからしばらくの間、テリエスは図書館に通い詰めた。
図書館の最奥、湿気と埃に塗れた書架で見つけたその書物は、装丁すらされていない奇妙な本だった。表紙は革とも紙ともつかぬ怪物の皮のような質感で、そこに並ぶ文字や回路の図形は、まるで生き物のようにかすかなマナを帯びて微動しているようにさえ見えた。
それを単なる「古い魔法の参考書」だと思い込み、テリエスは夢中になって解読を試みた。掠れた回路の図形を指先でなぞるたび、書物の奥底から滲み出た濃密なマナが、静かに彼の皮膚から体内へと吸い上げられていく。
本を開いているあいだずっと、テリエスは自分でも気づかないうちに、その本が放つ深遠なマナを全身で浴び、その力を内側へと蓄え続けていたのだった。
おっさんは静かにその傍らに寄り添い、テリエスが熟読している本をそっと覗き込んだ。テリエスが必死に解読していたのは、のちに身体能力を飛躍的に向上させる『加速』や『強化』へと繋がる高度な術式だった。
独学でマナの巡りを解析し、脈動する文字から必死に理論を読み取ろうとするテリエスの真摯な姿を、おっさんはどこか愛おしそうに、そして誇らしげに見守っていた。
そうしてテリエスが理論を理解し、身体強化魔法のコツを掴みかけたある日のこと。おっさんは静かにその不思議な本を閉じ、テリエスを促した。
「テリエス、ついてきな」
連れていかれたのは、村の外れにある鬱蒼とした森の奥——二人だけの『秘密基地』だった。倒れ木に囲まれたその場所で、おっさんはテリエスの肩を掴んだ。
「これからお前が使う『ヘイスト』や『フォース』の魔法だが……発動する時に身体へ意識して脈動を起こせ。魔法による速度や筋力の跳ね上がりを、バーバリアンの身体強化スキル『エンハンス』に偽装するんだ」
「エンハンスに……?」
「そうだ。『小柄だからスキルの能力補正が高いんだ』と思わせればいい。ここなら思い切り魔法を使っていい。俺が特訓に付き合ってやる」
その日から、秘密基地で二人の特訓が始まった。
◇
季節が巡り、再び図書館で二人並んで本を読んでいた時のことだ。
王国の地図と、その周囲をぶ厚く覆う「毒気」の記述を指で辿っていたテリエスは、ふと疑問を口にした。
「おっさん。毒気の先には何があるんだ? 俺は絶対に別の『国』があると思ってる。だって『国』って概念は、比較対象になる別の国が無ければ意味をなさないじゃないか」
おっさんはペンを止め、テリエスを見つめた。
「王都から離れるほど毒気が濃くなるなら、1級冒険者になって身体耐性を上げるか護符を手に入れないと超えられないのかな。1級冒険者で毒気の向こうに行った人はいないの? いないんだったら……俺が行ってみようじゃないか!」
小さな拳を握りしめ、ニッと不敵に笑うテリエス。
おっさんは一瞬目を見張り、愛おしそうに目を細めた。
「……ハハッ、そうか。毒気の向こう側か。いいな! ロマンがあって最高だ!」
早くに両親を戦場で亡くしたテリエスにとって、おっさんはいつしか本当の父親になっていた。
おっさんは図書館で知識を教えるだけではなかった。
魔物の弱点や都市での相場感、世間知らずのバーバリアンを騙そうとする悪徳商人の手口。さらには、生きるための泥臭い術のすべてを体に叩き込んでくれた。
川辺で釣竿を垂らし、水面に影を落とさないよう腰を落とすコツ。
「いいかテリエス、魚は影に敏感だ。糸を引く時は腕じゃなく腰で引け」
「わかった!」と腰を落としたものの、大物にかかって勢い余って川にドボン。
「おっさぁぁぁん! 流されるー!」と叫ぶテリエスを、おっさんは片手でヒョイと引き上げてくれた。
乾いた小枝を集めて火を起こす技術。
「火はな、小さな枝から順番に燃やすんだ。いきなり太い木を入れたって煙が出るだけだ。魔法も、生き方も、小さな積み重ねが大きな火になる」
「なるほど!」と勢いよく息を吹きかけ、跳ねた火の粉が袖に燃え移って「おっさぁぁぁん! 服が焦げるー!」とパニックで走り回るテリエスを、おっさんは上着を被せてガシガシと火を消してくれた。
森での狩りの手ほどき。
「獲物の風下に立て。気配を消し、相手のスキを突くんだ」
「任せて!」と意気込んで踏み出した瞬間、枝をバキッと踏み折り、激怒した巨大なギガントボアに「おっさぁぁぁん! 助けてぇぇぇ!」と泣きついて逃げ惑うテリエス。
おっさんは間一髪で割り込み、片腕一本で猪の角を受け止めてねじ伏せてくれたのだった。
自分は、何をやってもドジで失敗ばかりだった。
だが、どれだけ不器用で情けない失敗をしても、おっさんは一度だってテリエスを叱ったり笑ったりしなかった。
「ガハハハ! いい度胸だテリエス! 失敗した分だけ強くなる! ほら、濡れた服を乾かすぞ」
びしょ濡れで凹むテリエスの頭を、おっさんの大きな手がガシガシと撫で回す。
片腕を失い、筋肉も落ちて村の誰よりも弱そうに見えたおっさんだったが、ポンと肩に置かれるその大きな手は、幼いテリエスにとって世界で一番頼もしく、温かかった。
パチパチと爆ぜる薪の音、香ばしく焼ける魚の匂い、そして頭に乗せられたおっさんの手の温もり。
どれもが、テリエスの胸に深く深く刻み込まれていった。




