6.囮?
※このエピソードでは過呼吸の描写があります。
苦手な方はご注意ください。
「でっかい虎が暴れ回ったという噂を聞いて、居ても立ってもいられなくなったんだよ。俺にとっちゃ、あのお嬢サマの罪があーだのこーだのはどうでもいいんだ! ただ、彼女が捕まったらその体を頭頂から爪先まで具に調べたい……それだけだ」
アレクセイは白衣のポケットから注射器を取り出すと、指揮棒のように振りながらうっとりと針先を見つめた。
ーーあ、この人もヤバい人だ……
「きみはサラさんと言ったね。よろしく」
「は、はい……」
アレクセイが手を延ばしてきたので、サラはしぶしぶ握手に応じた。今まで数々の動物を診てきた痕跡が、彼のてのひらに幾筋も刻まれている。
「そい」
「っ!?」
サラは、ちくっと小さな痛みを感じた。
指先に注射の針が刺されたのだ。
あまりにも手際が良かったため、サラは何をされたのか理解が追いつかなかった。
「さてさてサラさん。きみは囮かもしれないが、フェイラン嬢と結託し、庇っている可能性も捨てきれないね。今、君の指に致死量の毒を打たせてもらったよ」
「えっ……!?」
突如、サラの心拍数が早くなり、息切れが起きた。
ニコラは不機嫌そうに舌打ちする。
「これだからお前は……」
「質問に正直に答えれば、解毒剤を打ってあげよう。あなたはフェイラン嬢の手先ですか?」
サラは、息を切らしながら首を横に激しく振った。
「違います!」
アレクセイは、笑みを貼り付けたまま繰り返す。
「本当に? きみは手先ではない? 真実を言わないと死んでしまうよ」
サラは何度もこくこくと頷く。毒の効力なのか、心臓が熱くなり今にも破けそうだった。耳鳴りがする。遠くで、「お医者さん趣味悪っ!」とユハが笑う声が聞こえた。
すると、アレクセイはいきなり拍手をした。
「よしよしよし! どうやらサラさんは無実のようだ!」
そう言って、わしゃわしゃとスカーフ越しにサラの頭を撫でる。
しかし、アレクセイは解毒剤を取り出す素振りを一向に見せない。サラの息切れは止まらなかった。サラの頬に、つうっと涙が一筋流れ落ちる。
と、ニコラがサラを抱き寄せ、アレクセイを睨みつけた。サラの足の力が抜けたところを、腰に手を回して支える。
「アレクセイ! 教えてやれ!」
アレクセイは、あっと思い出したかのような顔をした。
「すまない! 打ったのは毒じゃない、ただのビタミン剤だよ。ハッタリさ。死ぬとわかっている状態でああ言うなら、サラさんの言うことは間違いなかったわけだ」
「そのハッタリで人が死ねることくらい、医者のお前なら分かっているだろうに。ましてや思念能力の高い獣因持ちに……二度とやるなよ」
ニコラは鼻をうごめかせて周囲を警戒した後、サラを連れて路地の区画を抜けた。「お前たちは見張っておいてくれ」とユハとアレクセイに言い残す。
「……歩けるか。空気がマシなところへ行くぞ」
ーー
ニコラは海岸沿いのベンチにサラを座らせた。ぽつんと一つだけあるガス燈がふたりを照らす。屈み込んだニコラは、サラと目線を合わせた。
「いいか。俺に合わせて息を吐きなさい……そう、上手だ」
ニコラの呼吸を真似すると、少しずつ過呼吸が収まってきた。彼は時折サラの背をさすって「大丈夫だ」と繰り返す。 第一連隊の中でも、過呼吸を起こす部下は何人かいた。過度の緊張状態、戦地での過酷な体験の想起……戦友を共に助け合い、乗り越えるために落ち着かせ方をアレクセイから習った。ーーもっとも、その医師が原因でこの少女が苦しんでいるのだが。
「……ありがとうございます。よくなりました、だいぶ」
「そうか」
ニコラは、心底ほっとした。サラの隣に腰掛ける。
「サラさんと言ったな。伝えなくてはいけないことがある。実はフェイランだけでなく、サラ・シベッタという洗濯婦の行方まで軍は追っている」
「えっ…!?」
「イリヤという同僚がいただろう。彼女が『サラ・シベッタが遅くまで帰ってこない』と証言したんだ」
「それは、私を心配してくれて……」
「ああ、あの慌てぶりはそうだろうな。フェイランの人質にされたと思ったのだろう。しかし、陛下は曲解されたようだ。さらなる証言、『フェイラン嬢がサラ・シベッタにドレスを譲った』……このことはサラさんをフェイランと極めて近しい人物だと勘ぐりなさった。つまりーー共謀者、ひいては諜報者だと」
「そんな……」
「アレクセイがサラさんを無関係だと伝言すればいいと思っていたが……あいつ、宮殿を出禁になってやがる」
「出禁……!?」
「陛下がある日、医者嫌いになってしまってな。侍医として働いていたのだが、解雇された」
元々、アレクセイの診療を訴える声は多かった。彼の計り知れない知識、異常を見抜く洞察力、手術の腕……それらは卓越したものだったが、如何せん患者との距離が近く、獣因持ちの患者を動物扱いして撫で回す癖があった。それでも、陛下は彼の腕を買っていた。「医者なぞ信用ならん」と吐き捨てるほど、ある祈祷師に入れ込んでしまうまでは。
今、陛下は心の平静を失われている。国への愛が強いために、国家転覆という裏切りが許せないのだろう。そんな陛下に一軍人のニコラが諫言したところで、この少女への処罰が和らぐとは思えなかった。
「……ここから少し離れたところに、産院がある。そこに行けば、女なら深入りせずに泊めてもらえるそうだ。そこへ行きなさい」
ニコラはポケットから地図とペンを取り出すと、印をつけてサラへ手渡した。彼女は不安そうにニコラを見上げる。
「私、もう帰れないんでしょうか」
「……できる限り、最善を尽くす。俺が……念のためーー」
突然、語尾が儚くなり、またもや気絶したニコラがサラの肩にもたれかかってきた。
ーー嘘、二度目!?




