7.逃走
ーーこの軍人さん、本当にどうしちゃってるの!?
サラは、またもや体を解放するために苦戦した。ただ、今回はベンチに腰掛けていたため、そっと頭を打たせないように立ち上がるだけでよかった。
ーーだ、大丈夫だよね……?
「そこで何をしている!」
「ひっ!?」
ほっとしたのも束の間、懐中電灯の光にサラの目が射られた。第一連隊の軍人たちがサラを発見したようだった。倒れているニコラを見て、被疑者に聞こえないよう声をひそめる。
「あれ見ろよ! 大将がやられてる!?」
「いや、でもなんでベンチに寝かせて……」
「血が地面にまで流れてこないようにじゃないか? そうすれば発見が遅れるって推理小説で読んだぜ」
「マジか! 恐ろしい女だ!」
サラは、地図を握りしめて駆け出した。
「待ちなさい!」
ーーなんで、なんで私がこんな目に……
私は、フェイランさまからもらったドレスでお洒落したかっただけなのに。サラの瞳に、じわりと涙が滲んできた。軍人たちはまだ追いかけてくる。
ーーもういや、帰りたいよ……お父さん、お母さん……
サラは、ぐいっと手の甲で涙を拭った。
いや、帰る場所はもうないのだ。故郷の村は、大戦で灰になった。両親は戦時中、「首都に働きにでれば爆撃に合わない」と判断し、少ない有り金を持たせてサラを奉公に出したのだった。
ーーいいか、サラ。何事も工夫が大事なんだぞ。頭を使うのを諦めちゃいけない。
漁師である父は、様々な生活品を加工し、漁に使っていた。逆に漁に使った道具が生活品に姿を変えることもあり、サラは魔法のようだと思ったものだ。母もサラに料理を教えるとき「工夫が大事」と呪文のように繰り返していた。
ーーさっき、キバの人は私をだますために、獣因を工夫して使ってた。アレクセイっていうお医者さんも私に嘘をついて試した……なら、私ができそうなのは。
サラは、指先に集中し、紫色の帯を顕現させた。あたりに芳しい香りが散らばる。そして、芝居くさい声で軍人たちに叫んだ。
「は、はー! 私はスカンクの獣因持ちだぞ! このにおいを吸い込んだ者は毒が全身に回るだろう! 犬ども、死んでもよいか!」
「うっ……?」
軍人たちは、一瞬息を止めたようだ。しかし、一人が鼻をつまんでいた指を離した。
「スカンクが、こんないいにおいなわけねーじゃん。香りを操る獣因……この女、例の行方知れずの洗濯婦じゃないか?」
「ああ、確か麝香猫の……」
「ならば、獣因がスカンクというのは嘘だな」
ーーやっぱダメだ! 私甘すぎ!
サラは、より強く帯を空間に顕現させてせめて香りを強くさせようと思った。嗅覚に重きを置く彼らにとって、強すぎる香りは捜査の攪乱になると思いついたのだ。
しかし、海岸沿いのここでは潮風で香りが霧散し、せっかく顕現させた帯も薄く消えかかってしまう。
ーーどうすれば……!
もうだめだ、と思ったとき、サラの目が住宅地の頭上に干しめぐらされた洗濯物へ止まった。大きなシーツがかかっている。
サラは、まだ生乾きのそれを手繰り寄せると香りの帯をシーツにたっぷり染み込ませた。
「止まりなさい!」
軍人たちに追いつかれたそのとき、サラは叫びながらシーツを彼らに思いきり投げつけた。
「……ごめんなさいっ!」
ずっしりと重たいシーツは彼らの視界と動きが封じ、その上思いがけない苦痛をもたらすことに成功してしまった。
「なんだこれ、頭いてぇ…!」
「息苦しっ……お前、早く引き剥がせっ……」
「わかってる! ……うっ!」
嗅覚の鋭い犬の獣因を持つ彼らは、強すぎる芳香に密閉されたことにより、自律神経に支障をきたしてもがく。
その隙に、サラは産院のある地点を目指して駆け抜けた。
ーー
「うちは、二億リュールで"だっちゃ"をはじめたかっただけなんです!」
無人貨物車両の手すりに括り付けられたシノは、わあっと号泣した。ユンが彼女のパスポートを手にしたまま首を傾げる。
「はて、"だっちゃ"とは? トマベチ・シノ」
シノは鼻をすすりあげながら説明した。
「この国にある、野菜づくりの家です。故郷のうちの地域、今ものすごい不作で……昔、ルースィの捕虜の兵隊さんと畑を耕したことがあったんです。そんとき、ルースィには"だっちゃ"という夢みたいな家があるって聞いたんです。狸様の力を持つうちの家は大食らいで腹が空きやすい上に、今は冷害で飢えとります。畑の野菜はもちろん、山でも野菜が育たないから動物たちまで減って……」
「夢の家"だっちゃ"……」
「はい。それを見つけるまであきらめられず、ルースィで野鳥や熊を狩って売り、日銭を稼いでおりました」
「意味がわかりません。詐欺だったんじゃないですか?」
と、フェイランが合点がいったように「わたくし、わかったわ!」と声をあげた。
「菜園ね! すっきりした。あなた、すごい訛ってるわね。でも、アズマ国の人にしては珍しくルースィ語を話せるようね」
「うまくないけど、うち、その捕虜の兵隊さん……いわんさんから教えてもらったです」
「わたくしも、祖国でルースィ語を学ぶため捕虜を家庭教師につけていたわ。おそろいね」
フェイランは、どこか不穏な様子でくすくすと笑った。
シノもつられて、えへへと笑う。ほとんど愛想笑いだ。
「それにしても、わたくしの命が二億リュールですって?」
「んだ、かなりの大金です」
「いいえ、少ないわよ? このわたくしがたった二億リュール? おかしすぎて笑いくたびれるわ……」
虎の女傑は、ふわりと豊かな髪をかき上げて微笑んだ。
「シノ。倍の四億リュールであなたを雇うわ」
「なっ……!?」
シノは身をこわばらせた。フェイランはシノの猟銃を人差し指で撫でて言う。
「あなた、戦い慣れてはいないけれど、銃の扱いはできそうだもの。素敵な水平二連式銃ね……。これでわたくしを守りなさい」
シノの表情は百面相のように変化し、葛藤しているようだった。ユンが困ったように口を挟む。
「お嬢、どこの馬の骨かわからぬものを護衛にしてよいのでしょうか?」
「あらユン。シノは馬じゃなくて狸よ。それに狐と狸なんてお似合いじゃないこと?」
「由緒正しく聡い狐と間抜けな田舎狸を同一視しないでください」
ユンはシノの拘束を嫌そうに解いた。天蓋の細い支柱を折って固定棒にし、シノの右腕に添えてハンカチを縛りつける。
「骨が折れているのでお荷物では? とても銃を握れるようには見えませんが」
この狐の嫌味と気遣いに、田舎狸は全く気づかなかった。それどころかシノの顔色はパッと明るくなる。
「これくらいなんともないです! うち、故郷では昼間仕留め損ねたヒグマが気になって眠れず、夜な夜な狩りに行ってました。岩に頭ぶっつけても、猟銃の反動に負けて肩の関節が外れても……」
「頼もしいじゃない!」
フェイランはシノに手を差し伸べ、固く握手を交わした。
「ふたつ、伝えなくてはいけないことがあるわ。ひとつめ、向かう敵を殺すのはよして?」
「えっ? 仕留めちゃだめなんですか!」
ーー猟に馴染んできたシノにとって、フェイランの美学は相性が悪そうだった。
「しかし、ふぇいらんさん。生け捕りがいちばん難しいんですよ。暴れるし……」
シノは昔、新鮮な鹿肉を家族に食わせたくて生け捕りを試したことがある。しかし、傷を負った鹿は生命を振り絞って逃げ、逃げられないと悟ると暴れた。結局、手負いを憐れんだシノはすぐさま心臓を打ち抜いたのである。
「なら、こういえばいいかしら。急所以外を確実に撃ちなさい」
「へえ、それならできます」
シノが頷いたので、フェイランは続けて口を開いた。
「ふたつめ、わたくしは無実。誓って国家転覆なんて計画していない」




