3.苦戦
サラは一刻も早く恐ろしい軍人の図体から離れたい一心で、両手で彼の厚い胸板を押した。
しかし、岩のようにびくともしない。腰に携えられた銃の重みのせいでもあるが、寝てもなお脱力しない筋肉の圧が凄まじい。せめて壁に突き立てられたナイフだけでも遠ざけたいのに、戦士の癖なのか眠ったまま握りしめている。
――怖い! 無理! 起きて! いや、やっぱ怖いから起きないで……!
涙目のサラがナイフの柄と彼の手を引き剝がそうと手首を掴んで引っ張っても、彼の着用している革手袋が滑り止めになり徒労に終わった。
この状況を打開するためのプランA。叫んで助けを呼ぶこと。
しかし、この軍人はフェイランさまを追ってきたと言う。なら、近くにまだ捜索中の皇帝軍がいるということだ。幸い、彼はドレスを着たサラをフェイランと誤認したことに気づき、危害を加えなかった。しかし、もしサラが叫んだとき、やってくるのがせっかちな軍人だったら……?
その軍人が、サラにもたれかかって眠る仲間を死体だと勘違いしたら……?
プランAはやめておいたほうがよさそうだ。
続いて、プランB。自力で脱出するまであきらめないこと。
サラは、壁に背をつけてそろそろと座った。こうすれば背の高い彼の体が路地の隙間で立てかけた板のようになり、下部に隙間ができた。ドレスの生地が傷まないよう時間をかけて脱出する。そうしてサラは身を屈めてゆっくりと抜けでることができたが、こすれたドレスの生地が破れないか気が気でなかった。
「やっと出られた……って、なんで紙袋が無くなっているの⁉」
せっかくイリヤへの贈り物を買ったのに、紙袋がなくなっていた。影の方へ転がっていったのかもしれない。サラは危ないとわかっていながらも、路地に再び潜った。
国内で「狂犬」と口々に噂される軍人ニコラ・カニスの脇腹を潜り抜けて。
――
帝国軍第一連隊大将ニコラ・カニスは、半年間の不眠症に悩まされていた。
医師のアレクセイが「きみは軍人だから徳だと思っているだろう?」とニコラにたずねたとき、ニコラは悪夢を思いだしていた。どんな戦場よりもうんざりする記憶だ。
「寝ないことで悪夢を見ないなら上出来だと思わないか?」
「診察に来て俺の魔法をかけた後でも、眠くならないんだね。耐性がついてしまったようだ。けれど、一日のどこかで眠っていないと今のきみは生きていないだろう。日中に気絶するのはいつ?」
「黄昏時だ……ちょうどヒョードルが事件を起こした時刻」
ヒョードルはニコラの部下だった。
第一連隊ではニコラを含め、ほとんどが犬の獣因に由来する家系出身者だ。犬の獣因は発現する割合が高く、様々な職種に就きやすい。人への忠誠心が強く力持ちであるため、介助、救助、保安の面で重宝される。
そして犬の獣因を持つ子どもたちが憧れ、とりわけ一目を置くのが帝国軍人だった。
ニコラは孤児で自分の出自がわからないため、獣因が発現した日は思いがけなかった。齢十一の頃、年上の若者たちとの喧嘩中に獣因が発現し、馬車の窓から一部始終を見物していた陛下から直々に声がかかったのだ。
ーー拾われたからには、ここで一番になってやる。
ニコラは現在に至るまで、青い炎のような野心で着々と犬の獣因を鍛え上げてきた。
戦地では誰よりも敵軍を始末し、功績分の遺骸を回収してきた……極めて残酷な男と言われている。
ニコラは「野良犬」からその獣因の強さで軍内最高地位の大将に昇りつめ、戦地で「狂犬」の異名で恐れられるようになった。
精鋭揃いの第一連隊で、ほとんどの軍人の見た目は統一されていた。全員が同じ一般的な人以上に尖った歯、赤い瞳。視覚よりも嗅覚を優先するため、視界を前髪で覆っている。
そのスタイルが平均的な中、ヒョードルの坊主頭は明らかに軍内で浮いていた。
ニコラの知る限り、軍内で獣因が発現していない素体は彼一人だった。獣因を使わずして体術と銃器の扱いのみで勝負し、副将として活躍する実力派だった。かつて有力なホッケー選手候補だったが、肺病を患う姉の治療費を稼ぐために入隊したらしい。
ヒョードルに突然、獣因が発現したのは悲劇としかいいようがない。
季節は冬。一日の見回りを終えた黄昏時だった。
石畳の道を、今日の晩飯の肉の配分をどうするとか、酒は何の種類にするかとか話しながら歩いていた穏やかな時刻。
突如、これまでに聞いたことのない獰猛なうなり声が響いた。
すると、唾液を垂らし、犬歯が鋭くなったヒョードルが血眼になって皆に噛みつきだしたのだ。
「副将! 血迷ったのですか!」
「痛っ! 大将、これヤバいかもしれません! 本気で噛みついてきます!」
「よせ! ヒョードル!」
ニコラの声もヒョードルの耳には届かず、さらに筋骨隆々に盛り上がった毛むくじゃらの背が膨らみ、シャツが裂けた。足に噛みつき、仲間を地面に叩きつける。
続いて、およそ2倍の大きさに変化した片手でニコラの首元に掴みかかった。
ニコラは咄嗟に腰に携帯した銃を構える。が、ヒョードルの力が強すぎて銃身を噛ませて食われないようにするのがやっとだった。
体勢が崩れ、馬乗りになったヒョードルから大量の熱い唾液がニコラに降りかかった。
と、同時に銃声が響き、流血が弧を描く。肩を撃たれたヒョードルが傷口を抑えて倒れた。
「無事ですか大将!」
「……ああ! 大丈夫だ!」
部下の一人が、血だらけの腕を抑えながら発砲したのだ。痛みにうずくまったヒョードルは徐々に人の姿に戻っていき、気を失ったようだった。
「これ、どう報告します?」
部下が銃口で自分の頭を掻きながら首を傾げた。
ヒョードルに手錠をかけ、応援を呼びに行かせた後、ニコラは呆然としながら護送馬車を見送った。
どうにも切なかった。
馬乗りになったアイツが、唾液と一緒に涙を溢れさせていたことを。
「……アイツの意志でやったんじゃない。そんな気がしてならないんだよ」
「悪夢は彼が君に泣きながら襲いかかる場面が繰り返される?」
「いや、違う。生えない尻尾を振って俺を追いかけてきたころのヤツが出てくるんだ。目が覚めると、もう会えないんだなと思う」
「……彼との面会は許されているがね。きみが言いたいのはそういうことじゃないんだよな」
アレクセイはニコラを地下牢へ案内した。
檻の中には、口輪を着けられたヒョードルがうなり続けている。事件以降、目を覚ました半獣人のヒョードルは凶暴なままで自己抑制ができないため、隔離され続けている。
「自己抑制が効かない人は初めて見たよ。学会では突然変異体という見方が有力だ。会話もできないし、誰か近づくと噛みつく猛犬チャンになっちゃったようだな。でも俺は諦めないよ」
「借しばかりだな、アレクセイ……」
アレクセイは白衣の袖をまくると、檻の隙間に傷だらけの腕を突っ込み、ヒョードルの頭を撫でた。
当然、ブツッと激しく爪が立てられる。きっと誰もが悲鳴を絞り出す痛み……しかし、アレクセイは至福の笑みを浮かべてヒョードルの毛並みを撫で回す。
ヒョードルは鼻にシワをよせて低くうなり続ける。
「俺は動物が大好きだからな! あ〜よしよしよし! いい子だぞ〜! 悪い子だけど! 軍人八人に重傷を負わせた悪い子だけど!」
「……この国にお前みたいな獣医師がいてよかったよ」
ニコラは、隈のある目元を少し緩ませた。
ニコラの獣因犬種はウルフドッグです。
第一軍団はシベリアンハスキーやサモエドなど、様々な犬種の獣因持ちがいます。
ヒョードルが発現した獣因犬種はロットワイラーです。




