2.フェイラン嬢のドレス
「サラ! 大丈夫なの⁉」
「生きてるよ!平気!」
あの執事に、完成した渾身のドレスを引き取らせた日の業務中。
達成感と疲労で満たされたサラは足を滑らせ口の広い洗濯桶の中へダイブしてしまった。同僚のイリヤがシーツを干す手を止めて駆け寄ってくる。
「平気って……泡だらけよ。入浴しに行きなさい」
「では、わたくしのバスルームにお越しなすって?」
シーツの波をかき分け、フェイランが顔を出してきた。にこやかに笑いながら優雅にお辞儀する。
「フェイラン嬢⁉ なぜこのような場に!」
腰を抜かすイリヤにフェイランは「怖がらないで~」と苦笑した。
「ユンを問い詰めてよかったわ。いつも手柄を独り占めしたがる困ったな狐だこと」
フェイランはそっと胸に手を当て、ドレスに話しかけるように言葉を紡いだ。
「もうだめだと思っていたこのドレスが息を吹き返すなんて……感謝してもしきれないわ。サラ・シベッタ、お礼をさせてくださらない?」
サラは頬を紅潮させてうなずいた。
「……はい、光栄です!」
――
フェイランのバスルームに置かれた陶製の浴槽で、しばしサラはくつろいだ。
この浴槽は実家から持ってきたものだろう。猫脚は虎の脚を模した黄金製だった。高級感が強すぎて気後れしたのは一瞬で、浸かってしまえば身も心もほぐれた。フェイラン嬢の故郷に伝わる生薬を加えた薬湯は冷えた、体を芯まで温める。
湯上りに体を拭いて新しい下着を身に着けると、ずぶ濡れの仕事服が見当たらなくなっていた。洗い場に運び込まれたのだろう。薄緑の素朴なワンピースに白のエプロン。それがいつものサラの格好だった。
代わりに、薄桃色の地に白い小花が描かれた繻子のドレスが畳まれていた。スリット部分はふんわり膨らませたフリルスカートが縫合され、ケープ型の胸元はきっちりと上まで閉じられている。サラが修繕したドレスよりも清楚で可憐な印象だ。
――まさか、このドレスをフェイランさまが借してくださるの……⁉
「いいえ、あなたに差し上げたいのよ」
応接間にて、柔らかなソファに身を沈めたフェイランは煙管の紫煙をくゆらせながら言った。
サラは驚いて立ち上がった。勢いの振動で、卓上の花瓶が微かに揺れる。
「このドレスはわたくしが数年前、初めて獣因を発現できた記念に作った物よ。私にはもう小さくて入らないから、よかったらもらってちょうだい」
「そ、そんな大切すぎる物いただけないです!」
「あなたはわたくしのドレスを綺麗に直してくれたわよね。だからこそよ。それくらい衣服を大事にできる人に譲りたいの」
フェイランは紅い唇をすぼめて煙を吐き、「可愛いじゃない」とドレスを纏ったサラをまっすぐ見つめる。
「……ありがとうございます! 大事にします」
サラは感涙にむせび、ドレスの裾をそっと撫でた。
いつか貯まった給金で洒落たドレスを買い、市街に出かける。それがサラの夢だったのだ。
――ちょうど休みの明日、このドレスを着て市街へ行こう。それで露店のアイスクリームを食べて、洗濯仕事を代わってくれたイリヤのためにクランベリーの砂糖漬けを買って……
その日、サラは心躍らせながら眠りについた。
――
――奮発しちゃった! でも満足……
ドレスに袖を通した今日のサラは上機嫌だった。市街ですれ違う人にかける「こんにちは」は語尾に音符がついたようだったし、アイスクリームを食べるときはドレスにシミを付けぬよう背筋が伸びたし、イリヤのお礼には砂糖漬けの他にも花屋のチューリップや髪留めも買った。
「この靴も、もうキツくて履けないから貰ってちょうだい」とフェイランが譲った、爪先に小さな薔薇飾りのついたシューズが高らかに鳴る。着る物で人の行動は変わるものなのだと実感する。
ただ、浮かれて時間を忘れ、宮殿寮の門が閉まるギリギリの時間まで外出してしまった。あたりが暗くなりはじめている。
比較的治安のいい市街でも、夜になればならず者たちが出ると言われている。今のサラは、高級品を奪ってくれとばかりに晒している身なりだ。急がなくては。
サラは近道を知っている。狭い路地裏だ。怖い人がいませんようにと祈りながら、急ぐ。
抜けた一角で、男の人影が見えて一瞬驚いたが、すぐに安堵した。帝国の腕章に、毛皮のついた羽織り。その男は洗濯場で見慣れた黒い軍服を着ていたからだ。
――なんだ、軍人さんか。
ほっとしたのも束の間、男の重い前髪に隠された赤い眼が、サラをとらえた。ただ、ものすごい風圧とぞっとするほど冷酷な殺気がこちらに押し寄せる。
ぎらりと光る鋭い眼光。それは夜行性の獰猛な獣――狂犬の目だった。
「――発見」
鼓膜を震わせる低い声と同時に、サラの身体は冷たいレンガの壁へ押しつけられていた。
視界の端を、銀色の閃光が通り抜ける。
ガギィン!!! と耳元で鍛冶が打たれるような、レンガが火花を散らす凄まじい衝撃音が響いた。
「ひっ……」
サラは、ひゅっと息を飲み込んだ。抱えていたイリヤへのプレゼントを包んだ紙袋が地に落ちる。建物の壁にナイフが突き刺さっていた。サラの首元の間際だ。いつ出したのか見えなかった。サラの全身がぶわっと総毛立った。
「お前はフェイラン……ではないようだな」
軍人は、震えるサラの首元に顔を近づけ、鼻をうごめかせた。
「異国趣味が特徴のフェイラン嬢を捕まえる命令で追っていたが、人違いだったようだ。背丈も違う、よく嗅げば匂いも違う」
「無礼を働いてすまない。俺は……」
言いかけた瞬間、いきなり軍人の重い上半身がサラの肩に向かって倒れてきた。サラの体がびくっと跳ねる。
――な、何⁉
すると、軍人から寝息が聞こえてきた。さらに、ゴロゴロと喉を鳴らす音まで。
――これ、どうしたらいいの⁉
フェイランの家名ティグリスは、ルースィ帝国風に改めたものです。
祖国では「梵虎」と書いて「ファンフー」と名乗っていました。フルネームで「梵虎緋蘭」となります。




