第十九章 第四話 託児所のひだまり
依頼人への報告を前に、俺は最後の確認を行うため、矢野みどりさんの経営する託児所へと向かった。
夕方の迎えの時間が一段落した頃合いを見計らい、施設内の一室で俺は矢野みどりさんと一対一で対面した。
「ある方からの依頼で、あなたの周辺の噂について調べさせてもらいました。結論を言えば、夫二人を殺して保険金を騙し取ったという話は、全くのデマという結果になりました。……ただ、あなたは何故この噂に反論しないのか、そこだけがわからないんです。よかったら教えて欲しいのです」
突然の探偵の訪問と問いかけに、みどりさんは自分の中の思いをまとめるように、少し考えてから口を開いた。
「その噂は知っていました。でも、噂というものは、いくら反論しても受け取る人次第だから……。一人目の夫は初恋の相手でした。彼が病に倒れた時、私はできる限りのことをしようと決めました。彼もそれにこたえるように、最後まで生きようと頑張ってくれました。大きな借金が残ってしまいましたが、それは後悔していません。ただ、無力な自分がつらかった」
みどりさんはここで一旦話を区切り、また少し考えた後、前を見つめて言葉を続けた。
「二人目の夫は、喪失感と借金で生きる気力を無くしかけていた私を、大きな包容力と我慢強い優しさで掬い上げてくれたんです。……大切な二人の思い出を、そんな悪意ある噂に晒したくはないので、黙っていました」
彼女は言った。覚悟を決めた女性というものはこんなにも強く美しいのかと息をのんだ。
俺はこれ以上は何も言えなくなり、軽く頭を下げてその場を後にした。
*
それから俺は、報告を行うために口佐賀さんの団地へと向かった。
茶の間の座卓を挟んで、俺は西島さゆりさんと対面していた。口佐賀さんも傍らで心配そうに俺の顔を見つめている。
「西島さん。結論から言います。矢野みどりさんが夫二人を殺して保険金を騙し取ったという噂ですが、あれはデマです。警察も保険会社も事件性を一切否定しています」
俺の明確な言葉に、西島さんは胸の仕えが下りたように、小さく息を吐き出した。
「本当に……犯罪者ではなかったんですね。……でも、水商売の経歴とか、保険金を巡る親族とのトラブルとか、そういうお話は……」
西島さんがなおも気に病むように声を潜めたが、俺はそれ以上の追及を遮るように首を横に振った。みどりさんの個人的な苦労や、さっき聞いたばかりの本心をこれ以上明かすのは、探偵としての信義に反する。
「西島さん。最初の依頼の時に約束した通り、俺が調べられるのは事件性の有無という客観的な事実までです。事件性が無いと判断した今は、彼女のプライベートに関してお話しできません、彼女の今後の営業にも差し支えますから、俺からの報告は差し控えさせていただきます」
西島さんは背筋を正して深く頷いた。俺は言葉を続けた。
「ただ、俺自身の目で夕方の託児所の様子を外から確認してきましたが、今預けられている子供たちはみんな、屈託のない笑顔で本当に楽しそうに彼女に懐いていましたよ。……過去の噂に惑わされるより、西島さん自身が直接あそこへ行って、みどりさんや子供たちの様子を自分の目で確かめてみてください。それが一番確実な判断になりますから」
「はい……。私、自分の目でちゃんと確かめてみます。本当にありがとうございました」
西島さんは納得してくれた。俺の仕事はここまでだ、これ以上踏み込んでも誰も幸せにならない。
*
自分の借りている六畳一間のボロアパートの部屋に戻り、俺は読みかけの古い海外のハードボイルド小説の文庫本を再び開いた。
人の噂ほどいい加減で、残酷なものはない。だけど、そんな悪意の雑音に囲まれながらも、自分の足で託児所を守り続けている矢野みどりという女性の強さは、本物なのだろう。
「……ま、俺がこれ以上口を挟むことじゃないね」
俺は文庫本のすり切れたページをめくり、小説の中の男たちが紡ぐ、少し乾いた台詞の世界へとゆっくりと視線を落としていくのだった。
(第十九章・完)




