第十九章 第一話 団地の茶の間
休日の午前中、俺は自分の借りている六畳一間のアパートの部屋で、古い海外のハードボイルド小説の古い海外のハードボイルド小説の文庫本を何度も読み直していた。
すり切れた表紙をめくりながらお気に入りのセリフを頭の中で追っていると、机の上に置いていた携帯電話が突然、けたたましい音を立てて鳴り響いた。画面を見ると、登録されている純喫茶『ノア』の常連、口佐賀さんの名前が表示されている。
「もしもし、黒崎くん? 朝早くからごめんなさいね。実はね、うちと同じ団地に住んでいる西島さんっていうお友達が、どうしても探偵さんに相談したいことがあるって言うのよ。今うちの部屋に一緒にいるんだけど、ちょっとこっちまで顔を出せるかしら?」
また口佐賀さんからの案件か。まともな話ならいいなと思いながら、俺は「分かりました。今からそちらへ向かいます」と告げて電話を切り、上着を羽織ってアパートを出た。
ママチャリで二十分ほどで、口佐賀さんたちが暮らす年季の入った団地へと到着した。指定された棟の階段を上がり、呼び鈴を鳴らすと、すぐに口佐賀さんがドアを開けて俺を迎え入れてくれた。
茶の間の座卓を挟んだ向かい側には、小さな子供を連れた三十代前半ほどの女性が不安そうな表情で座っていた。俺は口佐賀さんに促されて座布団に腰を下ろし、西島さゆりさんと名乗ったその母親から、お茶をいただきながら詳しい話を聞くことにした。
「あの、矢野みどりさんという女性が経営している、近くの施設の託児所のことで相談に伺いました」
西島さんは膝の上で何度も手を握り締めながら、周囲で囁かれている内容を話し始めた。
「今度そこに子供を預けようと考えていたのですが、団地のママ友たちの間やネットの書き込みで、本当に恐しい噂を聞いてしまって……。そこの園長さんが水商売で男を誘惑して保険金目当てで二人の夫を殺したって……他にも色々と言われてるんで、事実か調べて欲しいのです」
この話を受けるにあたって、俺は一言だけ付け加えた。
「その矢野みどりという人の過去を調査することはできますが、その託児所が安心かどうかまでは保証できませんがそれでもいいですか?」
俺の言葉に、西島さんは少し驚いたように目を見張ったが、すぐに深く頷いた。
「はい、分かっています。とにかく噂なのか、それとも本当の犯罪者なのか、その事実だけでも知りたいんです。お願いします」
「分かりました。では、その条件で調査を引き受けます」
方針が決まったところで、俺は西島さんに先に帰ってもらうよう促した。彼女を見送った後、茶の間に残った口佐賀さんに向き直る。
「口佐賀さん、お願いがあるんだけど、団地内の主婦たちの間で流れているその矢野さんて人の噂を、できるだけ詳しく集めておいてもらえませんか」
「ええ、分かったわ。任せておいて」
口佐賀さんの快い返事を聞き、俺は団地の部屋を出て階段を下りながら、手帳の新しいページに、経営者である『矢野みどり』の名前を書き込んだ。
夫二人の死、多額の保険金、そして水商売という過去の経歴。俺は、口佐賀さんの言うママ友界隈の具体的な噂の中身を整理するため、まずは団地周辺での聞き込みの手がかりを頭の中で組み立てるのだった。




