第十八章 第四話 探偵の境界線
約束の最終日、事故物件の部屋に戻った俺は、沈さんから聞いた「横浜紅龍会」という名前の重みを一人で噛み締めていた。
お化けが出ないことを確認するだけの単純なルームロンダリングだと思っていたこの部屋は、暴力団組織が密輸や監禁、そして口封じが行われた暗闇の底そのものだった。警察に告発したところで、末端のトカゲの尻尾切りで終わり、後からどんな凄惨な報復が来るか分かったものではない。
(……これ以上は、俺には無理だな)
正義の味方のヒーローになる気なんて、端から持ち合わせていない。俺はこれ以上の深追いをやめて手を引く決断をした。荷物をまとめて部屋の鍵をかけると、俺は地元の不動産屋へと向かった。
店内のカウンターの席で、俺は篠原遥さんと対面していた。遥さんは期待と不安の混ざった涙目の上目遣いで、俺の顔をじっと見つめてきた。
「探偵さん……! どうでしたか、あの部屋……やっぱり幽霊とか、何か出ましたか?」
俺は彼女を見つめ、具体的な「横浜紅龍会」や「密輸」という言葉を一切出さないように注意しながら、口を開いた。せめて彼女だけは守るために。
「篠原さん。約束通り1週間泊まったけれど、あの部屋に幽霊の類いは出なかったよ。……ただね、それよりもかなり危ない筋の物件だから、すぐにその担当を外してもらうか、できれば会社自体を変えた方がいい。これは脅しじゃなくて、本当のアドバイスだよ」
俺のただならぬ真剣なトーンを察したのか、遥さんはムチムチとした体を強張らせ、小さく息を呑んでコクりと頷いた。
「分かりました……。探偵さんがそこまで言うなら、私、別の仕事を探してみます」
「うん、その方がいいね」
俺はそれだけ告げると、カウンターの席を立ち、不動産屋を後にした。
*
自分の借りている六畳一間のボロアパートの部屋に戻り、俺はいつもの安ウイスキーをグラスに注いだ。
あの危ない事故物件に比べれば、相変わらずすきま風が入り込んで冬の手前で冷え込んでいるこの自室が、今は何よりも愛おしく、安全な隠れ家に思えた。結局俺は何も暴けず、何もできないまま手を引いた。
だけど身の丈を超えた正義感は身を滅ぼす、俺は私立探偵で警察じゃない。
「……ま、今夜は大人しく温かくして寝るのが一番だね」
俺はグラスを傾け、琥珀色の液体を喉に流し込むと、冷たい夜風が吹き込んでくる窓を閉めて、早めに布団へと潜り込むのだった。
(第十八章・完)




