第十七章 第三話 午前十時のファミレスと、バンドエイドの手元
閉店後の帰路についていた千鶴ちゃんに声をかけ、俺はレシピノートの件について尋ねてみた。千鶴ちゃんは一瞬、ひどく狼狽した表情を見せたが、すぐに諦めたように小さく肩を落とした。
だが、時計を見るとすでに夜も遅い。若い女の子をいつまでも道端で引き止めるわけにはいかなかった。俺は「明日、ゆっくり話を聞かせてほしい」と提案し、駅前のファミレスで午前9時に待ち合わせる約束をして、その場は一度別れることにした。
翌朝、約束の時間の数分前にファミレスに入り、ドリンクバーのコップをテーブルに置いて待っていると、定刻ぴったりに千鶴ちゃんが姿を現した。その胸には、マスターの厨房から消えていたレシピノートが、大切そうにしっかりと抱えられていた。
「……すみませんでした。ノートを持ち出したのは、私です」
席に座るなり、千鶴ちゃんはノートをテーブルの上に置き、深く頭を下げた。俺はただ黙って、彼女の手元を見つめた。やはりその左手の指には、いくつもの新しいバンドエイドが痛々しく巻かれている。
「おじいちゃんにこれ以上、無理をしてほしくなかったんです」
千鶴ちゃんはドリンクバーのメロンソーダのグラスに視線を落とし、実はと言って不器用な本音を語り始めた。
彼女の家では、おおらかな母親がマスターの体調をあまり心配しておらず、放任に近い状態なのだという。だからこそ、マスターも周囲から注意されることもなく無理をしてパイを焼き続けていた。
だが、ここ1年ほど一緒にノアで働くようになった千鶴ちゃんにとっては、腰を痛めて本当につらそうにしているおじいちゃんの姿を、とても見ていられなかったのだという。
「休んで欲しいと言ったのに、楽しみに待っている常連さんがいるからって、おじいちゃん、絶対に休もうとしないから……。だから、あのレシピがあれば、私が代わりに作れるようになって、おじいちゃんをいつでも休ませてあげられるんじゃないかって思ったんです。それで、家に持ち帰ってこっそり練習していました」
慣れない包丁で何度も手を切りながら、小麦粉にまみれて自宅のオーブンと格闘していた。それが、千鶴ちゃんの左手のバンドエイドと、ジーンズの裾に残されていた白い粉の正体だった。
「これから、どうしたいんだい?」
俺はドリンクバーの珈琲を口に含み、千鶴ちゃんに問いかけた。
「まだ大学の一年生だし、これと言ってやりたいことなんて、自分でもまだ分からなくて……。漠然とこのまま流されるより、とりあえず今は、おじいちゃんから吸収できることは、全部吸収したいと思っています」
18歳の大学一年生としての、リアルな心の吐露だった。
手を傷だらけにしながらマスターとレシピを守ろうとした彼女の不器用な優しさを、俺はただ黙って受け止めていた。
「だったら、いい提案があるよ」
俺は千鶴ちゃんにそう言うと、ファミレスの伝票を手に取るのだった。




