第十七章 第二話 限界の張り込みと、二つの白い足跡
俺はマスターに許可を貰い、カウンターの裏手にある店内の控室やバックヤードを詳しく調べてみた。
だが、棚の隙間や書類の束のなかをどれほど探してみても、レシピノートは見当たらなかった。誰かが意図的に持ち去ったとしか思えない状況だった。
「一応、ここで張り込みをさせてもらいますね」
俺はマスターにそう告げると、店の一番奥にある四人掛けのボックス席に陣取った。テーブルの上には、先ほどマスターがレシピなしで焼き上げた、出来立てのアップルパイが運ばれてきている。
フォークで生地の端を割ると、サクッと小気味いい音が響いた。何層にも重なった薄いパイ生地の食感の奥から、甘酸っぱく煮詰められたリンゴの濃厚な風味が口いっぱいに広がる。
「……美味いな。レシピなしでこれなら、文句はないはずんだが」
パイに舌鼓を打ちながら、俺は入れ替わり立ち代わり出入りする常連客たちの会話にそっと耳を傾けた。
お昼時が近づくにつれ、店内は少しずつ賑やかになっていく。近所の主婦たちの世間話や、ちょっとした地域の噂話など、本当に他愛のない話が店内に飛び交う。そのなかで、カウンターの端に座った口佐賀さんたちの話が、俺の耳に届いた。
「そういえばさ、あの裏通りのさくり耳のボス猫、最近すっかりお利口になっちゃってねえ。去勢手術をしてからすっかり丸くなっちゃって、商店街の肉屋の前でちょこんと座っておねだりしてるらしいわよ。昔はあんなに獰猛だったのにねえ」
(あの元・男のレジェンド、すっかり街に馴染んでるな……)
前回の事件の残像をパイと一緒に噛み締めていると、口佐賀さんはさらに言葉を続けた。
「それより、マスターの腰、相当悪そうねえ。最近は千鶴ちゃんがよくお店を手伝っているみたいだけど、見ていてハラハラしちゃうわ」
ちょうどその時、お昼のシフトに合わせたのか、店のドアが開いて千鶴ちゃんが姿を現した。
彼女は今年大学に入ったばかりの一年生で、まだ18歳のはずだ。白いブラウスにエプロンをてきぱきと着けると、お冷やのグラスをトレイに載せて、店内を無駄のない動きで給仕し始めた。
健康的で健気な働きぶりだったが、俺は奥の客席から彼女の動きを注意深く観察した。
千鶴ちゃんは注文を取る合間、厨房の奥で時折、痛そうに腰をさすっているマスターの姿を、とても心配そうに、じっと見つめていた。その視線には、ただのアルバイト以上の強い感情が含まれているように見えた。
時計の針が午後3時を回った。
朝の10時からここに座り続け、同じ雑誌を二回読み、新聞の同じ記事に三回も目を通した。パイの美味さを差し引いても、座り仕事の限界だった。俺は会計を済ませ、いったん店を出てアパートの自室へと戻った。
六畳一間の部屋の机にノートを広げ、今日集めた事実を頭の中でプロファイリングしていく。
口佐賀さんの噂話の通り、千鶴ちゃんは最近頻繁にマスターの手伝いに入っている。探偵の目が捉えた、彼女の細かなふたつの身体的特徴。
ひとつは、千鶴ちゃんの左手の指に不自然にいくつも巻かれていた、新しいバンドエイド。慣れない包丁で何かを大量に刻んだ跡、あるいは生地をカットした際の手元の狂いだ。
そしてもうひとつは、彼女が履いていたジーンズの裾の後ろ側に、うっすらと付着していた、乾いた白い粉の跡。
あれは間違いなく、パイ生地を捏ねるための打ち粉を散らした跡だった。
「なるほどな。……足跡は繋がった」
時計を見ると、ノアの閉店時間を少し過ぎた頃だった。俺はアパートを出ると、店からの帰路についているであろう千鶴ちゃんに話を聞くため、歩き出すのだった。




