第十七章 第一話 秋のモーニングと、消えた秘密の配合
朝の光が優しく差し込む純喫茶『ノア』の店内に、香ばしい珈琲の匂いが心地よく漂っていた。
俺はいつもの壁際の席に腰掛け、テーブルの上に運ばれてきたばかりのパンケーキの皿を眺めていた。
ふんわりと黄金色に焼き上げられた生地の上で、四角いバターがゆっくりと溶け、琥珀色のメープルシロップが艶やかな層を作っている。
「食欲の秋だからな。これくらいは探偵のエネルギー補給として当然の範疇だ」
誰に言い訳するでもなく心の中で呟きながら、俺はナイフとフォークを動かした。
口の中に広がる優しい甘さをのんびりと楽しんでいると、カウンターの奥から渋い顔をしたマスターの岩田源次郎さんが、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
普段は寡黙でシブいマスターが、今朝はどうにも落ち着かない様子で、白いエプロンの裾を何度も手で整えている。
「黒崎くん。……実は、少し困ったことが起きてね。探偵として、力を貸してほしいんだ」
マスターの声は低く、どこか困惑が混ざっていた。聞けば、ノアで常連客だけに密かに提供している裏メニュー、『季節のフルーツパイ』のレシピノートが、厨房から忽然と消えてしまったのだという。
そのノートには、リンゴや桃、洋梨など、季節ごとの果物の水分量や糖度に応じた、パイ生地の配合や焼き時間の細かな数字がびっしりと書き込まれていた。これがないと、常連たちが愛してやまない「いつもの味」がどうしても出せないらしい。
「あのレシピはね、私が若い頃、自分探しの旅をしていた時期に、ある地方の小さな洋食屋で惚れ込んでね。何度も頭を下げて、ようやく教えてもらった大切なものんだ。もう二度と手に入らない」
(岩田源次郎……自分探しの旅というより流浪の剣士? 脱藩浪人? プッ)
俺はフォークを止めて、心の中で小さく突っ込んだ。だが、マスターの表情は真剣そのものだった。
「今の時期なら、一番オーソドックスなアップルパイだから、これなら長年の感覚だけで何とか形にはできるんだが……。ちょっと厨房に入って、作業を見ていてくれないか。何か気づくことがあるかもしれない」
俺は皿を空にすると、マスターに促されてカウンターの裏の厨房へと足を踏み込んだ。
マスターの調理は、実に見事なものだった。
慣れた手つきで真っ赤なリンゴの皮を剥き、均等の厚さにスライスしていく。鍋にバターと砂糖を熱し、リンゴを投入すると、ジューシーな甘酸っぱい香りが一気に厨房を満たした。
続いて、冷やしておいたパイ生地を取り出し、麺棒で手際よく伸ばしていく。何層にも重なった薄い生地が、マスターの手によって綺麗な形に整えられていく。
安易に言葉を挟む隙もないほどの職人の技だったが、俺はマスターのある動作が妙に気にかかった。
生地を伸ばすために少し前かがみになるたび、マスターの眉間がわずかに歪み、動きが一瞬だけ止まるのだ。それとは別にマスターの勘違いの線もある。
「マスター。もしかして、そのレシピノート、どこかに置き忘れたり、いつもとは違う場所に仕舞い込んだりしたってことはありませんか?」
俺の問いかけに、マスターは麺棒を動かす手を止め、ふいと顔を背けた。
「そんなにボケちゃいないよ。私はノートの置き場所だけは、毎回必ず調理台の右の棚の一番上と決めているんだ。そこから無くなるなんて、どう考えてもおかしい」
少し不機嫌そうに怒られてしまった。だが、作業を再開したマスターは、今度は露骨に左手で自分の腰のあたりをトントンと叩き、小さく顔をしかめた。
「……腰、痛むんですか?」
「いや、なんでもない。最近ちょっと、冷えるからな……」
マスターはぶっきらぼうにそう言ったが、その歩き方は明らかに腰をかばうように不自然に強張っていた。
常連の口佐賀さんをはじめ、みんながマスターの体調やパイの提供が止まっているのを心配している。その日常の裏で消えた、世界に一冊だけのレシピノート。
俺は店内のバックヤードの確認を始めた。




