第十六章 第三話 桐谷陽葵と、消えたヨーコ
指定されたホテルのラウンジの奥の席で、俺は桐谷陽葵さんと対面していた。
目の前に座る彼女は、洗練された大人の雰囲気を漂わせていた。だが、その口元には、写真と同じかすかなえくぼと八重歯が確かに存在していた。
「……約束通り、一人で来てくれたのね。私に、何を求めているの?」
陽葵さんは周囲を気にすることなく、静かな声で俺を真っ直ぐに見つめた。俺はただ事実だけを淡々と告げた。
「塚田竜司さんが先月、刑務所を出ました。10年前、あなたを傷つけたチンピラへの報復で服役していた男です。彼は今でも、当時の写真を持ってあなたを探しています」
『塚田竜司』という名前が俺の口から出た瞬間、陽葵さんは小さく息を呑み、その両手が膝の上で硬く握りしめられた。
しばらくの間、ラウンジの喧騒だけが二人の間に流れた。
やがて、陽葵さんは視線を窓の外の景色へと外し、ぽつり、ぽつりと、掠れた声で言葉を紡いだ。
「……あの夜、私は大怪我をして、顔の傷の痛さと恐怖で、病院のベッドのなかで死にそうになっていた……。一番苦しくて、一番寂しいときに、私はただ、あの人にそばにいて欲しかった」
その目から静かに涙が溢れ、白い頬を伝って落ちていった。
「それなのに、あの人は私を置いて勝手に飛び出して行って、人を殺して、そのまま帰ってこなかった。……私はそんなこと望んでなかった」
その言葉の奥にあるものを、俺はただ黙って聞いていた。
事件の後、顔の傷を抱えながら、どれほどの苦労をしてきたか。彼女はただ一人で、覚悟を決めてその後の人生を生き抜いてきたのだ。
「今の私には、夫と子供がいます。……あの人には、会えません」
陽葵さんは静かに涙を拭うと、真っ直ぐな、だが揺るぎない眼差しで俺を見つめた。
「ヨーコは死んだと、この世にはもういないと彼に伝えてください」
写真の中で微笑んでいた「野に咲くタンポポのような娘」の面影はもう今は無く、きっぱりと俺にそう告げた。
すべてを話し終えた彼女は、あたかも微笑みあう若い二人を懐かしむように視線はまた窓の外を眺めていた。
俺はこれ以上の言葉を挟むことなく、
「わかりました」と言って、一度だけ深く頷き、席を立つのだった。




