第十六章 第一話 本牧の記憶と、タンポポの残像
週末の夜。俺はスナック『蜘蛛の巣』のカウンター席で、ママが新しく仕入れたという海外の安ウイスキーのボトルを眺めていた。
「ねえ探偵さん、これラベルが格好いいから買ってみたんだけど、どうかしら」
ママが差し出してきたグラスを口に含んだ瞬間、強烈なアルコールの刺激が喉を焼いて激しく咽せていると、店のドアが開いた。
今夜の依頼人として入ってきたその男は、まだ30歳という年齢のわりに、どこか世間から切り離されたような独特の硬い空気を纏っていた。
「塚田竜司です。……先月、刑務所を出たばかりです」
名刺を出す代わりに、男はそう告げた。
話を聞くと、竜司さんは10年前、横浜駅近くの寿司屋で板前修業に励む20歳の若者だった。
当時、先輩に連れられて初めて本牧のクラブへ行った際、客あしらいが下手でどこか周囲から浮いてしまっていた18歳のホステス、ヨーコに一目惚れしたのだという。
「少ない給料をやりくりして、何度も店に通いました。そのうち、昼間にデートもできるようになって……。ヨーコは、田舎から出てきたばかりのような、あか抜けない娘でした。でも、笑ったときのえくぼと八重歯が印象的でね。まるで、野に咲くタンポポのような娘だったんです」
そう言って、竜司さんは財布の奥から、当時の二人が微笑んでいる古い写真をみせてくれた。
確かにそこには、笑うと左の頬に小さなえくぼができ、唇の隙間から少しだけ八重歯が覗く、可愛らしい娘の姿が写っていた。肩を寄せ合う若い二人の笑顔が、色褪せたプリントのなかに残されている。
そんな二人にある事件が起きた。
店で絡んできた質の悪いチンピラ3人組の接客を拒んだヨーコは、激しい暴行を受け、顔に大きな傷を負う大怪我をさせられてしまった。ヨーコが病院に搬送されたと知った後、怒りに駆られた竜司さんは、包丁を握るはずだったその手でチンピラたちの根城へと単身突撃し、3人を叩きのめした末、うち1人を殺害してしまったのだ。
現行犯逮捕された竜司さんは、その後10年の刑に服役。先月ようやく出所し、真っ先にヨーコの行方を探したものの、本牧のクラブはとうに無く、彼女の足取りは完全に途絶えていた。
「ヨーコが今、どこでどうしているのかを調べてほしいんです」
俺は「分かりました。まずは当時の事件直後の足取りから追ってみます」と応じ、依頼を引き受けた。
翌日から、俺は本牧の周辺を皮切りに、当時の関係者への聞き込みを開始した。
10年前の事件の記録、そしてヨーコが事件後に働いていたという飲食店を、当時のつながりを頼りに古いものからひとつずつ足で辿っていく。
だが、街の記憶を辿る作業は一筋縄ではいかなかった。
分かったのは、彼女が事件の恐怖や周囲の目から逃れるように、数ヶ月単位で店を転々と変えて働いていること。
今から8年前、中区の小さな店に在籍していたのを最後に、文字通りピタリと消息を絶っているという事実だった。
俺は8年前の古い名簿の束をカバンにしまい、次なる手がかりを探すために、静かに手帳を閉じるのだった。




