第十一章 第一話 珈琲の香りと、過ぎ去りし日の幻影
純喫茶『ノア』の店内で、俺はいつものモーニングセットを食べながら新聞を読んでいた。
今の時代、スマートフォンの画面を指先で少し弾けば、世の中のニュースなんていくらでも事足りる。
それでもわざわざインクの匂いが残る大きな紙面を開いているのは、ただの俺のこだわりだ。
トーストを口に運び、ガサリと紙面をめくったところで、コーヒーのお代わりを持ってきたマスターが、俺のカップに静かに黒い液体を注いだ。
「黒崎くん、相変わらず新聞なんだね」
「ええ。やっぱり文字は、紙で読まないと落ち着かなくて」
「ふふ、君らしいね。……あぁ、そうだ。ちょうどよかった」
マスターはポットを引くと、思い出したようにエプロンのポケットから一枚のメモを取り出した。
「実はね、うちの常連さんから、ちょっとした困りごとを相談されていて。腕のいい探偵さんを探しているって言うから、君を紹介しておいたよ」
またしてもマスター経由の、日常のちょっとした困りごとだ。
紹介されたのは、白木加奈子さんという女性だった。詳しい話を聞くために、俺は平日の夜、指定された場所へと向かった。白木家は思いのほか立派な一軒家だった。
加奈子さんの話によると、依頼の内容は彼女の義理の母親――白木純子さん(68歳)に関するものだった。上品でどこかおちゃめな雰囲気を持つおばあちゃんなのだが、最近少しずつ、認知症の症状が進んできてしまっているのだという。
「ここ一週間ほど、夜になると家族に内緒で、家を抜け出して徘徊するようになってしまって。私たちは心配で仕方がないんです。どうか、夜の徘徊の後を付いて行って、何事もないように『見守り』をしていただけないでしょうか」
危険な要素など何一つない、完全に平和な『付き添い』の仕事だ。
「分かりました。お任せください」
俺は加奈子さんと約束を交わし、その日の深夜から早速、家の近くの物陰に身を潜めて張り込みを開始した。
時計の針が深夜の1時を回った頃。
玄関の扉が静かに開き、足音を忍ばせて純子おばあちゃんが外へと出てきた。俺は十分に距離を保ち、気配を完全に殺して彼女の『尾行』を開始した。
だが、静まり返った夜の住宅街を歩き始めて、ものの数分が経った頃だった。
純子おばあちゃんは不意に足を止めると、ゆっくりと振り返り、真っ直ぐに俺の方を見つめて微笑んだ。
「――あら、紘一さん。やっと来てくれたのね」
「え……?」
完全に『尾行』がバレていた。それどころか、驚いたことに、おばあちゃんは俺のことを、ずっと昔に亡くなってしまったという夫の紘一さんと勘違いしているようだった。
俺をじっと見つめる彼女の瞳は、まるで少女のように輝いており、おばあちゃん自身も、心だけは完全に当時の若き日の彼女に戻ってしまっているようだった。
「さあ、行きましょう。あなたと見た、あの綺麗な景色を探しに行かなきゃ」
彼女は嬉しそうに俺の腕に手を添えて歩き出した。
ここで「人違いです」と冷たく突き放して、おばあちゃんの心を傷つけるわけにはいかない。俺は即座に『尾行』から、亡き夫になりきる『護衛』へと作戦を切り替えることにした。
(……それにしても、あの綺麗な景色って、一体何のことなんだ?)
どこか現実味のない不思議な夜の散歩のなかで、俺は隣を歩くおばあちゃんの楽しげな横顔を見つめながら、これから始まる奇妙なデートの行方に思いを馳せるのだった。




