第十章 第三話 高架下の逃走と、客間の対峙
「捕まえろ! 娘の方だ!」
男たちの怒号が高架下に響き渡る。明らかにパパの見張りではない。谷口組と敵対する本物の組織の連中だ。
俺は恐怖で縮み上がりそうになる足を必死に動かし、かおりの手を強く引いて猛然と走り出した。
「こっちだ、走れ!」
背後から迫る複数の足音と、特殊警棒がコンクリートを叩く嫌な音が響く。複雑に入り組んだモールの裏通路や資材置き場の隙間を、俺は持てる限りの記憶を頼りに必死に駆け抜けた。一歩間違えれば、かおり共々どこへ連れざるか分からない。
角を曲がった拍子に男の一人が正面から掴みかかってきたが、俺は死に物狂いでその腕を振り払い、かおりを連れて狭い非常階段を駆け上がった。本当に危ないところだった。
迷路のような夜の街を遮二無二走り続け、ようやく追手を完全に撒いたときには、周囲はすっかり静まり返っていた。
冷たい夜風を浴びながら、俺たちは息を切らせてかおりの家の前までたどり着いた。
安堵からか、かおりの目から大粒の涙が溢れ出した。過保護な父親への不満、友達付き合いもできない孤独、そして今襲われた本物の恐怖。今まで彼女のなかに張り詰めていた感情が、一気に爆発したようだった。
「……怖かった、本当に怖かった……っ!」
かおりは激しく泣きじゃくりながら、俺の胸の中へと勢いよく飛び込んできた。
腕の中に伝わる、若く華奢な体温。
(……待て。これは、あれか? 窮地を救われたヒロインが、大人の男の魅力に気付いて恋が始まっちまうっていう、小説でお馴染みのあの展開か……!?)
俺のオタクな脳みそが、かつてないほどの勢いで誇大妄想の暴走を始めていた。不謹慎ながら、鼻の下が伸びそうになるのを必死に堪える。
だが、そんな甘い妄想は、直後に通された谷口組の客間で一瞬にして木っ端微塵に吹き飛んだ。
重厚な革張りのソファの向こうに座る、谷口組の親分。その放つ圧倒的な威圧感と、周囲を固める本物の組員たちの冷ややかな視線に、俺の心臓はさっきの逃走劇以上につぶれそうになっていた。
俺は背筋をこれ以上ないほど伸ばし、自分の正体と、ショッピングモールから高架下へと至る事の次第を、震える声を必死に抑えて親分に報告した。
「――なるほどな。事情は分かった」
親分は低く地を調うような声で呟くと、ぎろりと鋭い眼光で俺を睨みつけ、ドスの利いた声で言い放った。
「だが、うちの娘に手を出そうとは、いい度胸じゃねえか。……なぁ探偵さんよぉ」
「ひっ……」
「どこの馬の骨かも分からねえ組織のガキどもが、うちのシマで何をしてくれたか、きっちり落とし前をつけさせてやる」
(う〜わ、怖い。怖すぎる。落とし前って、俺じゃなくて敵の組織のことだよな? よな……!?)
生きた心地がしないまま、俺はトレンチコートの中でただただ石のように固まっていた。
だが、恐怖のあまり意識が飛びかけそうになりかけたころ、親分はふっと表情を緩め、俺に向かってこう言ったのだ。
「まぁ、それはそれとしてだ。今回、危険を冒して娘を無事に助けてくれたことには感謝する。探偵さん、何か欲しいものがあれば言ってみろ。可能な限り、俺が用意してやる」
命を救われたばかりか、ヤクザの親分から直々に「何でも欲しいものを言え」という破格の提案。
ここで賢く大金を要求するか、あるいは一刻も早くこの場から逃げ出すのが、賢明な小心者としての正しい選択だったはずだ。
だが、俺の口から出たのは、自分でも信じられない言葉だった。
「……お金はいりません。ただ、かおりさんの自由を、もう少しだけ尊重してやってはいただけないでしょうか」
静まり返る客間のなかで、俺は偉そうにそう言ってのけたのだった。




