第八章 第一話 念願のトレンチコートと、冬のボーナス
フッ……男が長い雌伏の時を経て、ついに本物の「形」を手に入れる瞬間ってやつが、人生にはあるものさ。
12月。世の中は年末年始の浮き足立った空気に包まれていたが、俺はこの連休をどうやって過ごそうか、ついにあのコートを手に入れる瞬間にワクワクしながら、部屋で一人でトレンチコート姿の自分を想像して気分を出していた。
待ちに待った冬のボーナスが支給され、俺の懐は再び過去最高に温まっていたのだ。
今度こそ、あの夜の街のモルグへ金を流して失うような愚行は侵さない。俺はおろしたての固い紙幣をしっかりとポケットにしまい込み、横浜中華街の裏路地へと直行した。
目的の場所は、古着屋である沈さんの小さな店だ。
「アイヤ、クロサキサン! イラッシャイ!」
店の引き戸を開けると、沈さんがいつもの怪しい片言の日本語と笑顔で迎えてくれた。
俺はカウンターの前に立つと、いつもの黒いスーツの上着を正し、沈さんを見つめた。
「沈さん、約束の品を買いにきました。――あの、トレンチコートを」
予算の都合上、今回はどうしても帽子までは手が届かなかった。だが、沈さんが店の奥から恭しく引っ張り出してきたのは、俺がこれまでの人生でずっと目を付け、狙い続けていた、あのほどよくくたびれた漆黒のトレンチコートだった。
俺は代金を支払い、その場でついに念願のコートを羽織った。
「クロサキサン、めちゃくちゃ似合うネ! これ、中のスーツも変えなきゃダメよ! これならば安くするヨ!」
上機嫌な俺に、沈さんがここぞとばかりに横槍商売を仕掛けてきた。
差し出してきたのは、なんと紫色で、肩パッドがやたらと張っているスーツだった。(アルマーニ?いつの時代だよ!TM NETWORKか!玉置浩二か!とこころのなかで突っ込んだ)
俺は目を凝らし、襟元のタグをよく見ると(ArmaniではなくArmaneだった)アルマネってなんだよ偽物じゃないか!
沈さんのあまりに強烈な商魂に圧倒されながらも、俺はすぐにキリッと表情を引き締め、丁重にお断りを入れた。
「……フッ、沈さん。俺にはやっぱり、この微妙に体に馴染んだ黒いスーツがいいのさ」
物欲に流されず、こだわりを貫いて店を出た。
帽子は買えなかったが、早速トレンチコートを着込んだ俺は、本物の探偵の気分に浸るため、山下ふ頭まで足を延ばしてみることにした。
12月の冷たい海風を浴びながら、コートの襟を立て、港を出て行く貨物船をじっと見送り、遠いロサンゼルスの街に思いを馳せてみる。――行ったことないけど。
(……いや,、それにしても、コートを着てても寒いものは寒いな)
現実の冷たさに耐えかね、両手をポケットに突っ込み、背中を丸めてさっさと帰ろうとした、まさにその時だった。
近所の団地に住むウワサ好きの主婦、口佐賀さんから連絡が入ったのだ。
なんでも、同じ団地に住むシングルマザーが困っているという話で、俺は急遽、話を聞きにいくことになった。
口佐賀さんに連れられて訪ねたのは、岸本晶子さんの部屋だった。
横浜の不動産屋に事務員として勤め、5歳の男児を一人で育てているという晶子さんの第一印象は、化粧も薄く、髪の毛も後ろでまとめただけで、小柄で痩せ気味なせいで少し薄幸な女に見えた。
……が、俺の姿を見るなり、晶子さんは目を点にしてじっと見つめてきた。
「何ですかその格好。何かのコスプレですか?」
「え……?」
「ふふっ、男の人ってそういう子供っぽいところありますよね!」
彼女は一人で変に納得して笑っていた。
(――って、オイ!!! 俺がずっと狙っていた一張羅のトレンチコートを捕まえて、子供っぽいコスプレってなんだよ!!)
心の中で激しく抗議しながらも、俺は探偵としてのプライドを保ち、低い声で本題を切り出した。
晶子が言うには、2年前に会社からリストラされ、再就職がうまくいかずに荒れてギャンブルに手を出して離婚した元夫、中村修二さんの行方が1ヶ月前からわからなくなり、毎月支払われるはずだった3万円の養育費の入金も途絶えてしまったのだという。
「修二さんを見つけて、養育費だけでもきちんと話し合いたいんです」
(え〜……、闇賭博とか、闇金とか、そっち系はヤバすぎるだろ……)
彼女の口から出た「闇金融」や「借金」という不穏な単語の数々に、俺の小心者な脳みそは一瞬で震え上がった。だが、目の前の少し薄幸そうな晶子さんの必死な眼差し、そして何よりグレードアップした俺の最初の事件だ。ここで引くわけにはいかない。
こうして俺は、年の瀬の慌ただしさのなか、音信不通となった元夫の行方を追うため、一歩間違えれば裏社会の泥沼へと繋がる奇妙な捜査へと足を踏み入れるのだった。




