第七章 第一話 空っぽの財布と、団地の依頼人
フッ……夜の帳ってやつは、時として手に入れたばかりの幸福さえも綺麗に連れ去っていくものさ。
金曜日の夜。俺はスナック『蜘蛛の巣』のカウンターで、かつてないほど上機嫌でウイスキーのグラスを傾けていた。
それもそのはず、前回の事件で、これまでにないほどのたっぷりとした依頼解決料をいただいたのだ。
明日、土曜日の朝になったら、俺はあの沈さんの店へ向かう。そして、念願の漆黒のトレンチコートとソフトハットを購入し、ついに完全体の私立探偵へと覚醒するのだ。
おろしたばかりの厚みのある財布をポケットに感じながら、俺は未来の自分に祝杯をあげ、完全に泥酔するまで飲み明かした。
運命の土曜日の朝。
六畳一間のアパートの布団のなかで目を覚ました俺は、頭痛を抑えながらポケットを探り、血の気が一瞬で引いた。
「……ない」
財布が、どこにもないのである。
寝ぼけた頭で部屋中をひっくり返し、畳に這いつくばって調べ、絶望のあまり冷や汗が全身から吹き出した。一万円札が何枚も詰まっていた、あのずっしりとした重みが、嘘のように消え失せている。
生きた心地がしないまま最寄りの警察署へ駆け込み、遺失物の届け出を出したところ、対応した警察官から妙に憐れんだような目を向けられた。
「あー、黒崎さん。それらしい財布、さっき近所の路上で拾われて届いてますよ。ただ……」
引き渡されたのは、間違いなく俺の革財布だった。
だが、チャックを開けて絶望した。中身の紙幣は綺麗さっぱり消え失せ、残っていたのは俺の運転免許証と、工場の社食のプリペイドカードだけだった。
(……終わった。俺のコートが、ハットが、宇宙の彼方へ消えた……)
あの夜の街のどこかで、誰かに中身だけを抜かれたのだ。あまりのショックに、俺はアパートのデスクでただただ灰になり、魂が口から抜け出しかけていた。手元には、1円の現金すら残っていない。完全なるすっからかんだ。
ジリリリリリリッ!!!
スマートフォンの着信音が、静寂を破った。
死んだ魚のような目で画面を見ると、純喫茶『ノア』のマスターからだった。
『あ、黒崎くん? 近所の団地自治体の人からさ、ちょっと困った事件があるから腕のいい探偵を紹介してくれって頼まれてね。今、ノアの店内に自治体を代表して口佐賀さんが来てるから、今すぐ話を聞きにきてくれないか?』
すっからかんの俺に、断る権利などない。
俺はいつもの黒いスーツを羽織り、サングラスをかけて、這うような足取りでノアへと向かった。
店内のボックス席で俺を待ち構えていたのは、近所の団地に住むウワサ好きの主婦、口佐賀さんだった。
「聞いてよ黒崎ちゃん! 最近、うちの団地で干してある洗濯物が何度も何度も盗まれてるのよ! タオルとか下着とか。それでね、ついに昨日、私の大切なピンクのパンツまで盗まれちゃったのよ!!」
(……口佐賀さんの、ピンクの、パンツ)
俺はサングラスの奥で絶句した。
口佐賀さんは、お世辞にもスレンダーとは言えない。失礼ながら、ウエストが1メートルはあろうかという貫禄の持ち主だ。
(おいおいおいちょっと待て。あのウエスト1メートルもある口佐賀さんのパンツを、わざわざ狙って盗む変質者がいるっていうのか……!?)
俺の探偵としてのプロファイルが、かつてない壁にぶち当たっていた。
今回は、俺のプロファイルは全く役に立たないかもしれない。そんなあまりにもコアな性癖の持ち主の気持ちなんて、俺には到底理解できないし、わかりたくもない。
「犯人を捕まえてくれたら、自治体の予算から2万円の報酬をあげるわ!」
2万円。財布を落としてすっからかんの俺にとって、それは砂漠のオアシスのような輝きだった。
コートの代金には届かなくとも、当座の生活費としては十分すぎる。
「……わかりました、口佐賀さん。その連続洗濯物泥棒、この俺が必ず捕まえてみせましょう」
俺は喉を鳴らしながら、まずは調査費用としていくらかの手付金をその場でもらい、懐に大事にしまった。
こうして俺は、謎の超コアな性癖を持つ不届きな変質者を追うため、団地を舞台にした奇妙な捜査へと足を踏み入れるのだった。




