第一章 第二話 セピア色の純喫茶『ノア』と、昭和な男の『心の旅』
翌日、午後二時五分。
あえて指定時間の五分後に、俺は純喫茶『ノア』のドアをくぐった。
カランカラン、と古びたドアベルが小気味いい音を立てる。
(フッ……探偵ってやつは、依頼人を少し待たせるくらいがちょうどいいのさ)
ハードボイルド小説の知識をフル活用し、ポーカーフェイスで店内を見渡す。
ここは俺が「探偵の休日」を気取るためにたまに利用している、お気に入りの店だ。
セピア色の照明に、年季の入った分厚い革のソファ。ここなら、中華街の端で買ったサイズの微妙に合っていない黒スーツでも、少しは様になる気がした。
奥のボックス席に、一人の若い女性が座っていた。
……ちょっと待て。めちゃくちゃきれいな人じゃないか。
横浜の雑貨輸入商で働いているという彼女――田中冴子は、上品で、どこか儚げな雰囲気を纏っていた。二十四歳、一人暮らし。まさに大人の女性という佇まいだ。
ドクン、と心臓が跳ねる。
不覚にも鼻の下がだらしなく伸びそうになり、俺は慌てて奥歯を噛み締めて理性を呼び戻した。
落ち着け黒崎優斗。お前は今、冷徹な私立探偵だ。間違っても美人の前でデレデレするな。
「お待たせしました。あなたが、田中冴子さんですね」
俺はコート(これまたサイズが合っていなくて首元が窮屈だが)の襟を少し立て、彼女の向かいの席に腰を下ろした。
『あ、黒崎さん……! 来てくださってありがとうございます!』
冴子さんはすがるような目で俺を見つめ、組んだ両手にぎゅっと力を込めた。
「電話では、お父上が失踪されたと聞きました。……詳しく話してください」
俺がブレンドコーヒーを注文すると、彼女はぽつりぽつりと、事の顛末を語り始めた。
『実は……数日前、実家の継母(綾子さん)から、私のところに突然連絡があったんです。「お父さんの居場所、知らない?」って。私は十六歳の時に父が再婚して以来、綾子さんとは仲が悪いわけじゃないんですけど、どこかギクシャクしていて……』
『大学入学を機に家を出てからは少しホッとしたくらいだったから、実家から連絡が来るなんて珍しくて』
「なるほど。お父上に環境の変化でも?」
『はい。綾子さんが数日前、居間で新聞を読んでいた父を置いて近所に買い物に出て、一時間ほどで戻ってきたら、もう父の姿がなかったそうなんです。テーブルの上には、書き置きが一枚だけ残されていて……』
冴子さんはバッグからスマートフォンを取り出した。画面には、白いメモ用紙を撮影した写真が表示されている。
そこには乱暴な字で、一言だけこう書かれていた。
――『ちょっと旅に出る』
(……は? 旅?)
俺は心の中で盛大に突っ込んだ。
おいおい、令和のこの時代に、書き置き残して「ちょっと旅に出る」って……昭和かよ!
俺の親父が昔、酒を飲みながら言っていた話を思い出す。『戦後昭和の男たちはな、皆、心の旅に出て自分探しをしたもんだ。それが男のロマンさ』とかなんとか。当時も今も、正直意味が分からない。
だが、冴子さんの父親は今年で六十歳、先月定年退職したばかりだ。まさにその「昭和の男」の血を引く世代である。
『綾子さんがパニックになって警察に相談したんですけど……「書き置きに『旅に出る』ってあるなら事件性はない。大人の家出だから、もう少し様子を見てください」って、全然相手にされなかったみたいで……』
『切実な想いで父が、急にそんなことするなんて、私、何かトラブルに巻き込まれたんじゃって不安で……』
(あー……なるほどね。これはあれだ。定年退職したお父さんが、燃え尽き症候群か何かで『自分探しの旅』に行っちゃっただけだな。事件性、ゼロ!)
ヤバい裏社会の抗争や、ドロドロの監禁事件ではなさそうだ。
そう分かった瞬間、俺の心に一気に余裕が生まれた。
危険がないなら、この美人の依頼人のために一肌脱いでやってもいい。何より、探偵っぽい仕事ができる絶好のチャンスだ。
『……黒崎さん? 聞いていらっしゃいますか?』
「あっ、いや、聞いていましたよ! もちろん。だ、だいたい把握しました」
おっと危ない。自分探しの件で思考がトリップして、話を聞き流しかけていた。
俺は慌ててコーヒーを一口すすり、フッ、と不敵な笑みを浮かべてみせる(サイズが合わないスーツの肩を怒らせながら)。
「おそらく、お父上は人生の大きな節目を迎えて、少々センチメンタルな旅に出られたのでしょう。ですが、残されたご家族の不安はもっともだ。……分かりました。この依頼、黒崎探偵事務所が引き受けましょう」
『本当ですか……!?』
「ええ。まずは現場の状況確認です。明日、改めてあなたと一緒に、そのご実家へ伺いましょう。継母の綾子さんからも、直接お話を伺いたい」
『ありがとうございます……! よろしくお願いします、黒崎さん!』
パッと顔を輝かせた冴子さんの笑顔は、めちゃくちゃ眩しかった。
よし、明日は工場の休みをフルに使って、東京のベッドタウンへ遠征だ。
――この時の俺は、まだ知る由もなかった。
ただの「昭和な親父の気まぐれな自分探しの旅」だと思っていたこの事件が、まさかあんな奇妙な展開を見せるなんて。




