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第一章 第一話 黒崎探偵事務所の、極めて不本意な一日


名前だけは、いかにも裏社会の事件をスマートに解決しそうな主人公っぽい響きがする。


黒崎優斗くろさきゆうと、二十八歳。


それが俺の名前だ。


だが、現実は非情である。


俺の表の顔は、横浜の端っこ――ほぼ藤沢市との境目にある、うらぶれた段ボール工場勤務だ。


昼間は地味な作業服に身を包み、インクと油の匂いにまみれて、ひたすら段ボールを右から左へ運ぶだけの冴えない生活を送っている。


気が弱く、声も小さい。それが昼の俺。


しかし、午後五時の定時チャイムが鳴り響いた瞬間、俺の「本番」が始まる。


ダッシュで自宅アパート兼オフィスに戻ると、作業服を脱ぎ捨てる。


黒いシャツ。細いネクタイ。


外側のスーツは、中華街の端にあるいかがわしい古着屋で買った、サイズが絶妙に合っていない黒いスーツだ。


袖が少し短く、肩幅も余っている気がするが、ボタンを締めれば、俺はしがない工場作業員から、孤独を愛する冷徹な私立探偵へと変貌するのだ(と、自分では思っている)。


「フッ……今日も街は冷たい雨か」


実際にはただの曇り空だが、気分は大切だ。


デスクに無造作に足を投げ出し、百円ショップで買ったショットグラスに安いウイスキーを注ぐ。


たばこに火をつけ(電子タバコなんてありえない)、紫煙をくゆらせながら(実際はたばこ苦手……灰皿で燃やしてるだけ。お線香かよ!)、片手にはお気に入りのハードボイルド小説。


――そう、俺はただの「ハードボイルドオタク」だった。


この『探偵の雰囲気に酔っている自分』が、たまらなく好きなだけなのだ。


だからこそ、ネットの片隅にある個人掲示板に、

『黒崎探偵事務所。電話番号〇〇〇-〇〇〇〇-〇〇〇〇』

とだけ書き込んだ。


浮気調査はしないし、そもそも本当に依頼が来たら困るから、余計な宣伝文句は一切なし。完全なる自己満足のノリだった。


本当は、依頼なんて来るはずがないと思っている。


いや、むしろ来てもらっては絶対に困る。


本物の事件なんて、気の弱い俺に解決できるわけがない。何度も「やっぱり消そう、怖いし」とビビり散らかし、書き込みを削除しようとしては、オタクの未練で引き留める毎日だった。


そんな、いつもの平穏で不毛な夕暮れ時のことだ。


ジリリリリリリッ!!!


静寂を破って、デスクの上のスマートフォンが激しく鳴り響いた。


探偵の雰囲気を出すために、わざわざアプリで設定した『昭和の黒電話風』の着信音だ。普段は鳴ることのない虚しいこだわりが、牙を剥いた。


液晶画面には、見たこともない番号が表示されている。


「ひゃっ……!?」


情けない悲鳴が口から漏れた。心臓がバクバクと嫌な音を立てる。


ウイスキーを持つ手が小刻みに震え、灰皿でお線香状態になっていたたばこが落っこちそうになった。


(ま、間違え電話だろ? 落ち着け俺、これはただの、誰かの押し間違いだ……!)


だが、スマホは容赦なく鳴り続ける。


俺は生唾を吞み込み、震える指で通話ボタンをスライドさせた。映画の主人公のように、低く渋い声を絞り出そ――


「……はい、黒崎探偵事務所で、す(裏返り)」


盛大に声が裏返った。渋さの欠片もない。


慌ててゲホンと咳払いをし、「……失礼、少し風邪気味でね。何か事件ですか」と強引に繋ぐ。


『あの……ネットの掲示板を見てお電話したのですが、黒崎探偵事務所ですか?』


受話器から聞こえてきたのは、若く、少し焦ったような女性の声だった。


本物の、若い女の依頼人。


心の中のヘタレな俺が「お断りしろ!警察に行けと言え!」と大絶叫する。


「……内容によります。うちは、その、泥沼の浮気調査とかは専門外なんでね」


もっともらしい言い訳を並べて断ろうとした。ヘタレな俺、ナイス判断。


だが、彼女の口から返ってきたのは、予想だにしない言葉だった。


『浮気じゃありません。……父の、失踪事件なんです』


「しっ、失踪……っ!?」


今度は声が裏返るどころか、ひっくり返った。


失踪? 家出? それとも誘拐!? ますますヤバい案件じゃねえか!


冷や汗が背中を伝う。今すぐ「今から工場で夜勤なんです!」と叫んで電話を切りたかった。


だが、ふとカレンダーが目に入る。


――偶然にも、明日は土曜日。工場の休みだ。


それに、こんな寂れたネットの掲示板を頼ってくるくらいだ、他に行くあてがないのかもしれない。


オタク特有の妙な正義感と、ほんの少しの好奇心が、恐怖に打ち勝ってしまった。


「……分かりました。では、話だけなら聞きましょう。明日の午後二時、私の指定する場所へ来てください」


俺は近所にある、昔ながらの古い純喫茶を指定した。


こうして、俺の「絶対に引き受けたくなかった、初めての本物の事件」が幕を開けたのだ。


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