第五章 第一話 中華街の遭遇、あるいは流暢な沈さん
フッ……いくつもの大事件を解決へと導いてきた私立探偵、黒崎優斗。
これだけの連続実績があれば、もう段ボール工場なんて辞めて探偵業だけで(実はこれまでの稼ぎは大した額ではないのだが)食っていけるんじゃないか。
いつもの休日。俺はそんな都合のいい妄想を膨らませながら、横浜中華街を歩いていた。
もし本物の事務所を構えるなら、やっぱりこの中華街の薄暗い裏路地が最高にハードボイルドで様になるよな……などと夢を膨らませていた、その時だった。
通りの向こうから、凄まじい威圧感を放つ男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
見事なリーゼントヘアに、派手なアロハシャツ。白いパンツの足元は雪駄という出で立ちだ。
(……おいおいおい、昭和かよ!?)
思わず心のなかで突っ込んだが、すぐに背筋が凍りついた。地元の暴力団と中国系マフィア의対立でピリついている今の横浜中華街だ、あの格好、どう見てもガチのソッチ系の人間である。
無駄ないざこざを避けるのが、大人の流儀。
俺は男と視線が合わないよう、さも最初から用事があったかのような自然な足取りで、目の前にあった怪しげな店の入り口へと滑り込んだ。
「アイヤー! クロサキサン!」
背後から降ってきた大声に、俺は文字通りヒャッと三十センチほど飛び上がった。
入った店が悪かった。そこは、俺がいつも利用している、古着屋の沈さんの店だった。
「な、なんだ、沈さんか……。驚かせないでくださいよ」
胸をなでおろす俺に、沈さんはいつもの片言の日本語で、笑顔を貼り付けてすり寄ってくる。
「クロサキサン、クロサキサン! アンタニ、ピッタリノ、ハイッテルヨ」
「いや、今日はちょっとぶらっと街を散歩しにきただけだから……」
俺がやんわりと断ろうとした、その時だった。
沈さんの細い目が、すっと冷酷な光を帯びた。
「……そうだ。黒崎さん、あなた探偵でしょう。ちょっと、頼みたいことがあるよ」
次の瞬間、いつも笑顔だった沈さんの顔から、一切の感情が消え失せた。
そして、これまでの片言が嘘のように、とても、とても流暢な日本語で、静かに語りかけてきたのだ。
「警察には通報できない、出所の怪しい高価なビデオカメラが、店の奥の棚から盗まれてしまいましてね。……黒崎さん、犯人を見つけ出して、カメラを回収してくれませんか?」
「え、あ……っ?」
あまりの流暢さと、背後に潜むガチの裏社会のオーラに、俺の小心者な脳みそは一瞬でフリーズした。
沈さん、いつも怪しい片言で喋ってたのは全部ビジネス偽装かよ!
(今度、本物の拳銃とか手に入るか聞いてみようかな……いや、ダメだ。この人マジでホンモノのルート持ってるタイプのヤバい人だ!)
地元の暴力団と中国系マフィアの抗争。とても俺の出る幕ではない。
怖すぎる。完全に裏社会の泥沼だ。
俺は喉を鳴らし、命の危機を感じて全速力でお断りするための言い訳を脳内でこねくり回そうとした。
だが、沈さんはフッと不敵に笑うと、カウンターの奥から、漆黒の衣装を引っ張り出してきた。
「引き受けてくれるなら、以前からあなたがずっと目を付けていた、あのトレンチコートと、ソフトハット……これを報酬として、あなたに差し上げますよ」
トレンチコートと、ソフトハット。
それは、ハードボイルドオタクである俺が、これまでの人生でずっと夢にまで見てきた『探偵の完全体』になれる、究極の神器だった。
(……う、嘘だろ。あの憧れのコートと帽子が、俺のものに……!?)
目の前にぶら下げられた報酬に、俺の小心者な理性は一瞬で消し飛んだ。
頭が完全にポーッとなってしまい、さっきまでの裏社会への恐怖や、断るための言い訳が綺麗さっぱり宇宙の彼方へ消え去っていく。
「……いいでしょう、沈さん。その消えたビデオカメラ、この黒崎探偵事務所が必ずや見つけ出して見せましょう」
気づけば、口が勝手に動いていた。
頭が真っ白のまま、トレンチコートの物欲に目が眩み、依頼を快諾してしまっていたのだ。
我に返ったときには、もう遅い。
こうして俺は、ハットとコートという物欲にまんまとハメられ、外では暴力団とマフィアが睨み合うガチの暗黒街の抗争に、不本意ながらも足を踏み入れなければならないのだった。




