第四章 第四話 浪速のプロトコルと、ハードボイルドな惜別
土曜日の深夜に終電で帰宅した翌朝。カレンダーは日曜日。
当然、役所はどこもお休みだ。だが、今の時代、ネットを叩けば大概の情報は出てくる。
俺はアパートの布団のなかでスマートフォンを駆使し、麗子さんから聞いた大阪の児童養護施設の名前を検索した。
年中無休で子供たちが暮らしている施設なら、日曜日でも職員が常駐しているはず。俺は直接電話をかけ、事情を説明して信二くんが慕っていたという「姉」の住所をなんとか聞き出すことに成功した。
俺はその日のうちに新幹線に飛び乗って大阪の地へと降り立った。
教えられた住所の周辺で、いつもの黒スーツに黒サングラス姿で張り込むこと小一時間。
通りの向こうから、スーパーの買い物袋を下げて歩いてくる一人の若者の姿が見えた。写真の男――遠藤信二くん(22歳)だ。
(……出た! 本物だ!!)
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。だが、ここまで来て逃げたら男が廃る。
俺は意を決して物陰から足を踏み出し、彼を近くの公園のベンチへと連れ込んだ。
愛用のジッポーライターの蓋をカチカチと小気味いい音をいわせながら、サングラスの奥から、鋭い眼光を装った(中身は必死に怯えを隠した目)を向け、死ぬ気でハードボイルドな探偵を演じきる。
「……遠藤信二くんだね。高木麗子さんから頼まれた、あんたを追ってきた。……300万、どこへやった」
「ひっ……!? た、探偵、さん……っ?」
夜中に黒サングラスの男にジッポーの蓋をカチカチやられた恐怖からか、信二くんは一瞬で顔を真っ青にしてガクガクと震え上がった。俺の死に物狂いのやせ我慢に圧倒された彼は、ベンチでポロポロと涙を流しながら、真実をすべてゲロり始めた。
「盗むつもりなんて、なかったんです……っ! でも、離れてからも半年に1度くらい連絡を取り合っていた施設の『お姉ちゃん』が、男に騙されて巨額の借金を負わされたって聞いて……。本人も鬱病になって、ボロボロになってるって知って、俺、居ても立ってもいられなくなって、東京駅のATMから麗子さんの口座の金を移して、そのまま大阪に飛び戻ったんです……!」
「……金は、どうした」
「全部、姉ちゃんの借金の返済に使っちゃいました……。もう、1円も残ってないです。でも、鬱病の姉ちゃんを一人にはできない……。麗子さんには申し訳なくて、合わせる顔がなくて、電話すらできなくて……っ。ちゃんとこっちで就職して、お金は少しずつ、絶対に返します! だから麗子さんに、そう伝えて許してほしいって……お願いします……っ!!」
頭を下げて泣き叫ぶ信二くん。
その必死の告白に、俺はそれ以上何も言えなかった。
300万の現金回収。そんなガチの修羅場、金を使い果たして鬱病の姉を抱えた22歳の若者相手に、喧嘩経験ゼロの俺が無理やり力ずくで取り立てられるわけがない。
俺は重い足取りで大阪を後にし、その日のうちに麗子さんへ電話で信二くんのすべての事情を伝えたのだった。
*
それから、数日後の金曜日の深夜。
アパートでネクタイを緩めていた俺のスマートフォンに、麗子さんから電話が入った。
『明日、この街を離れるの。その前に、最後にあなたと会って話したいわ』
翌日の土曜日。
俺は横浜駅近くの喫茶店で、麗子さんと向かい合って座っていた。
「今週、信二から手紙が届いたのよ」
麗子さんは、少し寂しげな笑みを浮かべてポツリと言った。
「馬鹿よね、あの子。困ってるなら、私に最初から相談すればいいのに……」
「麗子さん……」
「でもね、あの子がその『お姉ちゃん』のために使うなら、私も信二の姉なんだから、私のために使うのと一緒よね。――なら、何の問題もないわね」
麗子さんはドリンクを静かに見つめながら、フッと息を吐いた。
「お金なんて、また私が舞台で稼げばいいだけの話よ」
その大人の女性の、あまりにも深く切ない優しさに、俺は胸が詰まった。
「……すみません。依頼された300万、取り返せなくて」
俺が役に立てなかったことを深く詫びると、彼女は首を振って「いいのよ」と言い、俺が請求した最低限の経費だけを支払ってくれた。
「じゃあ、もう行くわね。次の街が待ってるから」
店の外に出て、俺は彼女を電車のホームまで見送ることにした。
まもなく電車が滑り込んでくるという、その騒音のなか。
麗子さんは俺の方を振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「……あなたは、本当に優しい人だわ、探偵さん」
「え……?」
次の瞬間、麗子さんはスゥッとつま先立ちして、俺の頬にそっと、温かい口づけを落とした。
「――っ!?」
俺が驚きで硬直している間に、彼女はさっと電車に乗り込み、開いたドアの向こう側へと消えてしまった。ガタゴトと音を立てて、電車は彼女を乗せて次の街へと走り去っていく。頬に残る微かな体温と大人の甘い香りが、切なく胸を締め付けた。
切なかった。麗子さんのステージを見ていなかったことが……。
*
あれから、数日。
連日のうだるような暑さもようやく落ち着き、風のなかにそろそろ秋の気配が混じり始めてきた。
午後五時すぎ。俺はアパートのデスクに脚を投げ出し、安ウイスキーを揺らしながら、スマートフォンを見る。
今回ばかりは、いつもの「あ!工場行かなきゃ!」というドタバタな現実に戻る気にもなれなかった。頬に残るあの感触が、俺の心をいつまでも日ノ出町の夕暮れに留めている。
「フッ……ハードボイルドな探偵の心ってやつは、時として、秋の風よりも冷たく傷つくものさ」
誰もいない部屋でそううそぶき、俺はスーツの上着を羽織った。
今夜はスナック『蜘蛛の巣』にでも行って、常連の泥臭いカラオケの音に紛れながら、この行き場のない傷ついた心を癒そうか。――最高に、ハードボイルドに。
(第四章・完)




