猫を待てなかった犬
シオンが非番の日。
昼時になってようやく食堂に出てきた。
そこにはすでに午前の訓練を終えた第四班の面々が集まっている。
まだ寝ぼけた様子のあるシオンだが、迷わずロイの隣へと座った。
「おはよ」
「もう昼だぞ」
「いいじゃん、今日は休みなんだから」
「お前はいつもだらけてる」
シオンは今日もロイの部屋で寝ていたのだから、起こさないようにしたのはロイだろう。
テキパキとご飯を食べるロイの隣でシオンもゆっくりと食べ始めた。
「あ、そうだ」
途中でシオンが思いついたように声をかける。
「なんだ」
「今日これから、街の方に行ってくる」
「一人でか?」
「ううん、知り合いと」
訓練後、たびたびマルク達と飲みに街へ出かけるところを見ることはあっても、シオンが一人で街に行くことは滅多にない。
それに、第四班以外の知り合いと用事があって出るなんてこと、異動してきてから一度でもあっただろうか。
「お前に知り合いなんているのか」
「そりゃいるよ」
「誰だ」
「ん、西部にいたやつ」
それにロイの耳が反応した。
シオンの方を見て、一瞬何か言おうと口を開いたが、黙ってしまう。
正面で食事をしていたオーバとタオも不思議そうな顔をしている。
「異動する前の仲間ってこと?」
ロイの代わりにタオが聞く。
「そう、昔、一緒に任務に出て、そこで怪我を負って辞めちゃった」
続くシオンの返答に、思わずオーバとタオも黙る。
「そいつがまだ治療中の時、俺もうずっと前線にいたから、最後、隊を離れる時も会ってないんだ」
「……その人が会いにきてくれるの?」
「うん。俺が会いに行くって言ったら、お前は忙しいだろって」
「優しい人なんだね」
「うん、いい奴だった」
シオンの表情はいつもと変わらない。
ロイだけが少し不安そうに眉を下げる。
「会って、大丈夫なのか?」
隣から聞こえた声に、シオンが瞬いた。
「何が?」
「……何がって」
「あいつ、別に怒ってないよ。前も言ったでしょ?」
「そうかもしれないが……」
ロイが何を心配しているのか、シオンは何となく分かった。
それでも、一言、礼を言いたくてわざわざ書いた手紙。もし怒られたとしても、シオンは受け入れる気持ちでいた。
「大丈夫だよ」
シオンが笑う。
「俺はただ、ありがとって言いたいだけ」
その一言で、ロイはもう何も言えなくなる。
シオンはあの日のことを乗り越えようとしているのだ。
「……そうか」
「うん」
「なら、行ってこい」
「何で許可とるみたいになってんの」
ロイの眉が寄る。おかしくて、シオンがまた笑った。
オーバとタオは何の話か分からなかったが、悪いことではなさそうだと、そのまま静かに聞いていた。
「オーバ」
「はい」
「俺、街に行ってくるね」
「ずっと聞いてましたよ」
「一応ね」
「はい、行ってらっしゃい」
そしてシオンが食堂を出ていく。
その姿をみんなで見送った。
**
午後、ロイは事務仕事のため、執務室に籠っていた。
しかし、その耳も尻尾もソワソワしていてどこか落ち着かない。
十三時になって、ロイが書類から顔を上げる。
時計を確認して、また書類に戻った。
十四時、窓の外を見る。
宿舎の方へ向かう人影には、白い兎耳があった。
十五時。
もう一度時計を見る。
向かいに座っていたオーバが、書類をめくる。
「気になりますか?」
「何がだ」
「いえ、何も」
「お前、最近それ多いぞ」
「なぜでしょうね」
話す気のないオーバに、犬のしっぽが床を叩く。
ロイはまた書類に目を向ける。
それから三十分。
ロイが立ち上がった。
「街へ行ってくる」
「何をしに?」
「備品の調達だ」
オーバの手が止まる。
「わざわざ、あなたが?」
「別におかしいことはないだろう」
「昨日、補充したばかりですよ」
「……予備だ」
言い訳にもならない理由。
オーバは顔を上げた。ロイはすでに槍を手に持っていた。
「班長」
「なんだ」
「シオンが心配なら素直にそう言ったらどうです?」
「違う」
即答だった。
「…………」
「…………」
いつもは冷静なオーバの眉が寄る。
「そうですか」
そう言ってオーバも立ち上がる。
ロイは少し驚いてオーバを見た。
そこにはすでに、いつもの笑顔の狐。
「俺も行きますね」
「なぜだ」
「備品の確認なら、手伝いがいた方がいいでしょう。いいですよね?仕事なのですから」
何となく、その圧に負けてロイは受け入れた。
戸惑いながらも歩き出す犬。その少し後ろに狐はついていった。
**
ロイは本当に街にきて、いくつかの店を回った。
いつも拠点まで荷を届けてくれる店にまで。
オーバは何も言わず後ろをついて歩く。
街を歩き回る間、ずっと犬の耳は立っていて、鼻が周囲を確認するかのように時々動く。
そして三つ目の店を出た時。
聞きなれた笑い声。
ロイが反射的にそちらを見た。オーバもその視線を追う。
「…………」
少し離れた店から、ちょうど二人の男が出てくる。
楽しそうに笑う灰色の猫。その隣には見知らぬ男。
年齢はシオンより少し上に見える。
片足には義足がはめられている。今朝話していた、退役した仲間だろう。
「……あいつか」
「シオンの西部時代の仲間の方ですか」
ロイにオーバの声は届いていない。
視線の先はずっと、仲良さげに話す二人の姿だった。
想像していたものとは随分と違った。
もっと重い再会になるのではないかと。
いや、わざわざ遠くまで会いに来るくらいだ。
怒っていない、という相手の気持ちもロイには分かる。
それでも、もし、冷たい一言をあの猫がかけられたとしたら——。
眠れないと言った猫が、また、一人寂しく夜を過ごすことになるんじゃないかって。
それを考えて、ずっと落ち着かなかった。
でも、目の前には。
「お前、相変わらず生意気なままだな」
男の手が、慣れたように猫の頭にのる。
そのまま髪をボサボサにするほど撫でる。
「うるさい」
「一応先輩だったんだぞ〜」
「そうだった」
「全然変わってねえな」
「そっちもね」
「俺は変わっただろ。見ろ、この義足。最新の超軽量型だぞ?」
「そういうとこ。ずっと武器とか器具の自慢ばっかり」
男が笑う。シオンも笑った。
「班長」
それをずっと眺めていたロイにオーバが声をかける。
「なんだ」
「彼、元気そうで良かったですね」
「そうだな」
「シオンも」
「……ああ」
ロイの肩から、僅かに力が抜けた。
良かった。本当にそう思った。
心配していたようなことは起こらない。
「では、戻りましょうか」
オーバが歩き出す。
数歩進んで、止まる。
ロイが動かなかったからだ。
オーバがもう一度、二人に視線を向ける。
そこには肩を組むようにして、次の目的地へと動き出した二人。
ずっと元気のなかった尻尾が、今は苛立つように自身の体を叩いている。
オーバが細い目を、さらに細めた。
「なにか問題でも?」
「いや」
「では戻りますよ」
「…………」
それでも犬は動かない。
視線の先、躓いた男の肩を両腕で支えるシオン。
男は、少し恥ずかしそうにしながら、片手を顔の前で立てた。
シオンが何か言うと、また、男の手がシオンの頭を撫でる。
ロイの眉間に皺が寄った。
「班長、怖い顔してますよ」
「してない」
また即答だった。思わずオーバは小さく息を吐く。
「何が気に食わないんです?」
「どういう意味だ」
「まさか、それにも気づかないとか言わないですよね?」
オーバの顔から笑顔が消える。
いつもと違う雰囲気にロイも意識をオーバに向けた。
「眉間、寄ってますよ」
「だからなんだ」
「シオンは今日、非番です。どう過ごそうと彼の自由」
「分かっている」
「どこに行くかも先に伝えていた」
「そうだな」
「シオンも楽しそうでした」
「ああ」
「では、あなたは何がそんなに不満なんです?」
ロイが黙る。
「今だけではありませんね。ここ最近、同じように腹を立てる機会は多かったのでは?」
「…………」
「ソワソワと気持ちが落ち着いていないこともありましたね」
オーバの目が、ゆっくりと開かれる。
「いつも同じ誰かが原因だったのでは?」
「それは、あれが真面目に——」
「本当に?」
オーバは容赦なく、言葉を遮る。
ロイは言葉に詰まってすぐに返事ができない。
「最近のシオンは誰が見ても優秀な斥候ですよ」
「……仕事はな」
「何を言ってるんです?仕事が優秀なら十分じゃないですか」
「…………」
オーバはロイに近づいて、その肩を一度叩いた。
「何を期待して、何を望んでいるのか。いい加減あなたもちゃんと考えてください」
そして今度はロイを待たずに一人歩き出す。
ロイはその後ろ姿を見送り、視線を二人がいた方へ向ける。
そこにはもう、シオンの姿は見えなかった。
心配だった。それは嘘じゃない。
その後、二人の距離が近いのを見て、込み上がる不快な感情。
夜、壁側が空いたベッドも。
不自然に空いたままの隣の席も。
視界に入らないところで転がっていることも。
全部嫌だった。
でも、全部仕事とは関係ないことだった。
ロイは頭を抱えてその場にしゃがみ込む。
「……なんだ、それ」
随分と勝手な話だ。
常に自分の近くに居ろとでも言うつもりか。
そこまで考えてやっと。
「……もう、ずっと好きじゃないか」
ぐっとその一言を噛み締めて、ロイは立ち上がる。
その表情にはもう、何の迷いもないようだった。
**
その日の夜。
シオンがロイの部屋にやってきた。
ロイは立ったまま、窓の外を眺めてる。
「ロイ?」
声をかけてやっと、ロイがこっちを向いた。
「礼は言えたのか?」
「うん、今度また飲み行こうって」
「そうか」
シオンがベッドに座っても、ロイは立ったまま動かない。
その様子に、シオンは首を傾げた。
「どうしたの?」
「…………」
「……ロイ?」
不安そうにロイの名前を呼ぶシオン。猫の耳が少し下がった。
それを見て、ロイが動く。
ベッドに座るシオンの隣にゆっくり座った。
「……いや、やっぱりな、と思って」
「?」
「シオン」
「なに」
「好きだ」
シオンが固まった。
耳も尻尾も、全部動かない。
「今日、お前が悲しい思いをするんじゃないかって心配だった」
「…………」
「街で見かけて、楽しそうなのを見て安心した」
「…………」
「でも、あまりに楽しそうで腹が立った」
「……え?」
「全部、お前が好きだからだ」
そして沈黙。
犬は真剣に猫を見つめている。
猫の顔が真っ赤に染まった。
あまりの変化に犬の目が開かれる。
「っ!!」
「シオン?」
そして勢いよく布団に丸まって全部隠れてしまった。
「おい、聞いてるのか?」
「聞いてる!」
「なら、返事をしろ」
「いや、待ってよ!」
「何を」
「こないだから急展開すぎる」
ロイの眉間に皺が寄る。
「意味がわからん」
「こっちの台詞!」
シオンは布団から出てこない。
ロイはそれを見て、ふう、と息を吐いた。
「その感じ、お前はもっと前から気づいてたんだな」
また、シオンが固まる。
そして少しだけ、顔を布団から出す。
「……うん」
「そうか」
「……遅いよ」
「悪かった」
覗き見たロイは、困ったような顔で笑っていた。
「ロイ」
「なんだ」
「俺も好き」
犬の耳が立つ。尻尾が揺れる。
それを見た猫の目が細められた。
この日、やっと。
ずっと近かった二人の距離に、ようやく名前がついた。
シオンの帰りも、告白も、返事も全部待てない犬




